今日は以前に書いた文章を書き直してました。
「励ましてくれたつもりなんだろうけど、余計に傷ついた」
「悪意はないんだろうけど、あの言動は許せない」
「未経験者には経験者の気持ちがわからないんだからそっとしておいてほしい」
よくありますよね、こういった場面。
いわゆる「死別を経験した人間とその周囲の人間がうまくいかないケース」の典型です。
また、こういったケースで非難されるのはほとんどの場合「声をかけた側」ですので、ついでにその点も覚えておいてください。
さて、こういった場面ですが、私は誰も悪くないと考えています。
「声を掛けられた側」はもちろんのこと「声を掛けた側」も…
といったわけで少し考えてみましょうか。
いくつか質問を書いてみますので、気が向いたらみなさんも一緒に考えてみてください。
- 元気いっぱいの人間を励まそうとしたことはありますか?
- 楽しくて仕方ないといった人間を慰めようとしたことはありますか?
こういった質問であれば、おそらく誰もが「ない」と答えるのではないでしょうか。
当然、私だってそんなことはしたことありません。
つまり、こういった状況では誰も声をかけないということです。
では続いての質問です。
- 目の前に元気がなさそうな人がいたらどうしますか?
- ことあるごとに「つらくて仕方ない」と嘆いている人がいたらどうしますか?
- 死にたいと言っている人間がそばにいた場合はどうしますか?
この場合、どのような言葉を選ぶかは人それぞれになるはずですが、おそらく多くの方が「何かしらの声をかける」という選択をするのではないでしょうか?
その言葉は、「大丈夫?」だったり「元気出してね」だったり「嫌なことは忘れたほうがいいよ」だったり「生きていればいつか良いこともあるよ」だったり…
では、考えてみましょう。
この差、つまり「言葉をかけられないパターン」と「言葉をかけられるパターン」との差はどこにその原因があるのでしょう…
また、その原因となっているのはいったい誰でしょうか…?
その答えは、「声をかけられる側」の人間です。
そういった状況を作り出したのは、悲しみに沈み元気もなく「死にたい」と言っている人間なんです。
考えてみれば当たり前のことですが、声をかけられてしまうのは「声をかけられる側」にも原因があります。
それは、他人を心配させるような態度や表情をした結果であって、「何か声をかけておかないとどうにかなってしまうんじゃないか」と思わせた結果でもあります。
なお、誤解はしないで頂きたいのですが、これをもって「元気なフリをしろ」と言いたいわけではありません。
ただ、もし「他人から見て落ち込んでいるようにしか見えないような振る舞いをすること」を選択するのであれば、「他人から善意に基づく励ましや慰めの言葉を掛けられることがある」ということぐらいは理解しておくべきでしょう。
こんな感じで、何事も因果です。
原因を作れば、そこには必ず何かしらの結果が付いてくるものです。
そのため、もし望んだ通りの結果を得たいのであれば、原因となる部分に「相応の何か」が求められます。
ちなみに、もしこういったことに気づくことができれば、周囲の声を今ほどうっとうしくは感じないでしょうし、無神経だと憤ることだってきっと減るはずです。
結果として、死別”未”経験者を含む周囲の人間との関係も改善され、以前よりは多少なりとも過ごしやすい日々となるのではないでしょうか。
それに、「自分にも原因があるのでは?」と振り返ることができるようになれば、他人を責める必要がなくなり、気持ちもずっと楽になると思います。
ご参考までに。