亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

そのルールに価値はない…

 

 

大切な人と死別した人間が自分に課すルール…
この中には不幸しか生まないルールが往々にして存在します。

 

とその前に、そういったものには特にあてはまらないルールもありますので先に紹介しておきます。
それが、「毎日仏壇に手を合わせる」「毎月お墓参りに行く」といった類のもの。
こういったものは基本的に無害だと思いますし、そこに価値を見出すのは人の好き好きですから、どうぞお好きになさってください。

 

問題なのは次のようなルールです。

 

  • 「もう恋なんてしない」
  • 「二度と結婚なんてしない」
  • 「私だけ幸せになんてならない」

ちなみにこれらは昨日の記事に書いたのと同じルールですので、気が向いたら昨日の記事も読んでみてください。

 

 

では話を戻しましょうか。


当然ですが、こういったルールをご自身に課すのは自由です。
しかしその時に覚えておいて頂きたいのは、これらのルールが対外的には何の意味も持たないということ。
そして、さらに覚えておかなければいけないのは、「自分自身がそのルールを課した」ということと「そのルールを守り切った時に褒めてくれるのもやはり自分だけ」ということ。

なぜわざわざ「対外的に」と書いたかというと、この種の人間にはいわゆる死別後の美談にあこがれを抱きがちな方が多く、「その美談の形成に不可欠だと信じているこれらのルールをしっかりと守る自分、そんな自分への他人からの賛美」を求めがちだったりもするからです。

 

もう一度書いておきますが、この類のルールは他人にとってはどうでもいいことであり、すべて無意味です。

 

 

誰かに課されたルールでない以上これは当たり前のことです。
ただ、こういった人間はそれに気付いていない可能性も高く、誰も望んでいないルールをまるで価値があるかのように勘違いしてしまっていたりもするので書いておきました。

 

とまぁここまでならそれほど大したことはないのですが、上に挙げたルールは実は「非常に厳しい内容」なので、あとあとになるとその存在が自分を苦しめることになります。

 

というのも、たとえ今は想像ができなくても、これからの人生には何が起こるかわかりません。
この先誰かに惹かれる可能性だって十分にあるでしょうし、どこかに安らぐ居場所を見つけることだって十分にあり得る話です。

 

言うまでもありませんが、そんな時に立ちふさがるのがこれらのルールです。
つまり、絶望の人生にようやく希望の光が差し込みそうなまさにその瞬間に、これらのルールは非情にも「待った」をかけてくるのです。
もちろん、その場で瞬時に考え方を変えられるような柔軟性を持ち合わせていれば大ごとには至りません。
でも、もし頑なにこのルールを守ろうとした場合、結果としてそこにいる全員が不幸になります。
あなたの幸せを願っているはずの「今は亡き大切な人」は当然として、「絶望の人生の中で奇跡的に巡り会えたその人」も、そして自分が課したルールのためにみすみす新たな幸せの芽を摘み取ることになる「あなた自身」も…

 

それでもいいというならもはや止めませんが、こんな無意味なルールを自分に課すより、失った大切な人が何を願っているかなどと考えながら自分の幸せを求めて生きていくほうがよっぽど素敵だと思います。


一度きりの人生ではありますが、幸せが一度きりとは限りませんので…

 

 

 

 

にほんブログ村 家族ブログ 死別へ
いつもありがとうございます。クリックして頂けると、励みになります!