亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

美談なんて必要ない

 

 

大切な人を亡くすと、残された人間は「0か100かの思考」になりがちな気がするので、今日はその点について。

 

 

さっそくですが、この記事で言うところの「0か100かの思考」がどういったものかをまずはじめに説明しておきます。

 

  • 「もう恋なんてしない」
  • 「二度と結婚なんてしない」
  • 「私だけ幸せになんてならない」

なんてことはありません、こんな感じの思考です。
おそらく心当たりのある方も多いでしょうし、仮にご自身に心当たりがなくても周囲にそういった人間がいるケースは少なくないはずです。
また、これは「死別あるある」とも言えるので、もしかするとこういったブログなどでも見かけるかもしれません。

 

※先に断っておきますが、この思考をバカにしようとしているわけではないのでその点よろしくお願いいたします。
何を隠そう、あの頃の私自身がまさにこの考え方でしたし…

 

それでは話を戻しますが、なぜ人はこういった考え方をするようになるのでしょうか。

 

私なりに考えると、次に挙げる2つが代表的な理由になる気がします。

 

  • 「罪悪感」
  • 「理想の追求」

「罪悪感」については想像しやすいと思います。
これは、「大切な人を助けられなかったと考えること」を原因として生まれるものであり、「あの時自分がこうしていれば…」「あの場で引き留めていれば…」などの後悔がその根本にあるもの。
この罪悪感の行先が「大切な人をほっといて自分だけ幸せになるわけにはいかない、自分だけ幸せになってはいけない」という考えであり、結果として最初に挙げたようなような思考につながります。

 

なお、大切な人は間違いなくあなた自身のことを責めないと思いますし、今現在も責めていないと思うので、この思考は不要だと思います。

 

次に「理想の追求」ですが、これはざっくりと言い換えるなら「死別者がまっとうすべき人生を追い求めてしまう」ということです。

 

ちなみに、これには間違いなく世の中に溢れている美談が影響しているのでその点について。


今はぼんやりとしか思い出せませんが、死別にまつわる美談ってよくありますよね。
「伴侶を亡くし、その後は生涯独身を貫いた」とか「大切な人を亡くし、その後二度と笑顔を見せることはなかった」とか…

 

よくよく考えてみれば、こういうのって実際は本当に大したことない内容ですし、お世辞にも「素晴らしい」とは言えないものです。
ただ、なぜかテレビや本では必ず美化され、あろうことか美談とさえ呼ばれるようになります。
ここで忘れてはいけないのは、こういったものが幼少期からわれわれの頭にしっかりと刷り込まれているということ…

 

こういった刷り込みが影響しているのか、死別経験者の中には「こう生きなければいけない」などと自分に対してルールを課してしまう人間がいたりもします。
それがまさに最初に紹介した思考なのですが、自分に課したこれらのルールは実は美談を作るためだけのルールであって、それ以外のなにものでもありません。
冷たく言うなら、ただの「自己陶酔」かも。
いずれにしても、誰もあなたの美談なんて求めていないことには早く気付いてもらいたいものですし、あなたの大切な人も同様にそれを求めていないはずです。
もっとも、ルール真っ最中だとなかなか気付くのは難しいですけどね…



 

思うに、ご自身が有名人であって「ぜひとも後世に語り継がれたい」などと思わない限り、死別後のこの手の美談は絶対に不要です。

 

本当に大切なのは、少しでも幸せや安らぎを感じられる状況に自分を置くこと。
こんなことは「失った大切な人は今何を思ってくれているだろうか」と想像すれば簡単に答えが出ます。
もしくは、大切な人を残して自分が亡くなった時、残されて悲しみに暮れている大切な人に対して「自分なら何を望むか」を考えればわかることです。

 

きっと誰もがただただ相手の幸せを願うはずでしょうから。

 

 

 

 

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