亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

ねたみがどうにも止まらない方々へ

 

 

今回は、ねたみ癖がある方に向けて書いてます。
そのつもりで読んでください。

 

 

 

大切な人との死別は、言うまでもなく当人にとっての人生の一大事と言えるでしょう。
それはきっとそれまでの人生における最も過酷で悲しい出来事でしょうし、そのつらさは経験したものにしかわからないのかもしれません。

 

その一方で、周囲に目を向けるとそんな経験をすることもなく幸せそうに暮らしている人間がたくさんいるはずですし、もしかするとそんな人間が否が応でも目に入ってくる状況にいらっしゃるかもしれません。

 

となると、他人をねたむ気持ちが生まれてしまうのも無理はないのかも…

 

「どうして私だけ…」
「他の人はみんな幸せなのに…」

 

いわゆる「死別あるある」な心情ですね。

 

ちなみに、死別ブログが荒れる時はだいたいこういった思いを持った方が原因だったりしますが、そこに触れると話が脱線してしまうのでそれはそれということで。

 

話を戻しますが、では本当にこれは「私だけ…」に起きる一大事なのでしょうか?

 

これは、ちゃんと考えればそうでないことがすぐにわかります。
ひとまず、思わずねたみたくなるような幸せな夫婦がどこかにいたと仮定して話を進めてみましょうか。

 

少し考えてもらいたいのですが、このご夫婦はいつまでも死別を経験しませんかね?

 

いいえ、そんなことはありません。
私がわざわざ書くまでもありませんが、一家心中的な突拍子もないことをしない限り、この幸せなご夫婦のどちらかは確実に伴侶を残して亡くなるはずです。
もちろん、「伴侶を亡くした=幸せではない」ということではないので、それをすぐさま不幸と言えるかとなると話は別ですが、他人をねたむ気持ちがある人間にとってはほぼほぼイコールなはず。
そう考えると、このご夫婦のどちらかは将来必ず今のあなたと同じ状況になります。

つまり、伴侶を亡くして打ちひしがれ、周囲に幸せそうな人間がいる状況でその後の日々をすごしていくことになるわけです。
ということで、「私だけ…」というのは明らかな間違いですよね。
安心してください、みんないつかつらい思いをするんです。
ですから、そんな思いを根拠として他人をねたんでしまうのはちょっとおかしな話ですし、なにより、そんなことを盾に人をねたんでいると「そもそも人としてちょっとどうなのでしょう…?」という烙印を押されかねません。

 

でも、中には「いやいや、この年齢で死別を経験しているのはやっぱり私だけ…」といったように、今度は「いつ死別を経験したか」に重きを置いて他人をねたむ方もいる気がします。
それについても触れますか。

 

確かにそうですね、それはおっしゃるとおりかもしれません。

 

ただ、その部分に関しては単なる時間の問題ですから、そこに執着されては実はこちらも困惑してしまいます。
だって、「私はあの時代に生まれたかったのに」と言っているのとほぼ同レベルの主張ですので…

 

思うに、こういった方々は今回の記事とはまったく別な視点から死別をとらえる必要があると思います。
それについてはまたいつか書ければと思います。

 

こんな感じですかね。
要は、他人に自分と同等の不幸を望む方々に「安心してください、みんなあなたが望んでいるようにどん底に突き落とされます。だから、そんなくだらないことを望むよりもも今はもっと別のことを考えたらどうですか?」って言いたかっただけです。

 

もっとも、これだけだとちょっと突き放してる感じに聞こえる気がするのでフォローしておくと、「他人をねたむその気持ちは、きっと死別のショックによって脳が正常に働いてないだけだと思うので心配しなくてもそのうちなくなるはずです。
それまでは自分がひどくイヤな人間に感じるかもしれませんが、それもきっと今だけ。
少しでも早く他人の幸せをきちんと喜んであげられる素敵なご自身に戻れる日を願ってます」

 

 

 

 

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