最近は落ち着きを見せていますが、コロナ禍で著名人をはじめとして少なくない方々が亡くなっています。
このような誰かの死に触れるニュースを聞くたびに、私は自分自身に言い聞かせるようにしています。
「その方々にとって、そして周囲の方々にとってそれは予定外だったかもしれないが、人が亡くなるのはごくごく自然なこと。
これは残念ながらいつの世も変わらないことであり、人間の人生という大きなくくりで考えれば必然の出来事」
誤解のないように丁寧に書いたつもりですが、最近死別なさった方々には少しストレート過ぎる表現かもしれませんね。
でも、許してください。
これはやはり真実なので…
それに、私自身も「自分が想定もしていなかったような状況」で大切な人の死を経験している人間のひとりなので…
さて、それではなぜ私がこのようなことを毎回自分に言い聞かせるかというと、「人間の命に限りがあること」をたとえどれだけ頭で理解していても、状況によっては心が付いていかなくなる時があるからです。
そう、大切な人を亡くした時なんかはその最たる例と言っていいでしょう。
ちなみに、私は大切な人との死別に思いっきり翻弄されてしまった側の人間なので、偉そうなことは言えません。
ただ、死別において「何に注目するか」によってその振り回され具合は変わるような気がしていますので、以下私の個人的な意見と言うか見解を含めて書いていきます。
ここから先はあくまでもご参考までに。
思うに、死別を特別なことだと思えば思うほどその悲しみは深くなりつらさも大きくなる気がします。
逆に、死別を当たり前のことと考えることができれば、それをある程度は冷静に受け止めることができるはずです。
その証拠というわけではないのですが、90歳の方が亡くなったというニュースを聞いたとしたら、おそらく多くの方があまり気にもとめないでしょうし、どちらかと言えば「そりゃそうでしょ」といった感想を持つのではないでしょうか。
その一方で、20代の方が亡くなったと聞けば、多くの人は「若いのにかわいそう…」などといった感想を持つでしょう。
この差は、その死をどれだけ特別視しているかが原因です。
ですから、こういったニュースを以下のように書き換えてしまえば、きっとすべての人が悲しさなどを感じることなく冷静に受け止めることができるはずです。
「ある人が120歳まで生きられずに亡くなった」
どうですかね?
もしかするとこれでも悲しみを感じてしまうという方もいらっしゃるのかもしれませんが、先ほどの90歳とか20代とかの表現と比較するとその差は歴然ですよね。
こんな感じで、「当たり前の出来事が起こった」ととらえれば感じる悲しみは小さくなるものです。
そう考えると、悲しみって実はコントロールできるものなんですよね。
ただ、こういったコントロールも、こと自分の大切な人の死となると上手くいかなくなりがちです。
そこで思い出してほしいのですが、みなさんは「誰もがいつかは亡くなる」ということを頭では理解なさっているはずです。
そうなると、あとはそれをどうやって心にも理解させるか。
この方法だけです。
この方法さえわかれば、きっと今より少しは気持ちが楽になると思いますし、ほんの少しだけ穏やかな状況で大切な人の死を受け止めることができるはずです。
この方法ですが、たぶんいろいろあります。
言うまでもなく個人差も関係してくるでしょうから、全員に当てはまる方法を見つけるのは難しいのかもしれません。
でも、おそらく全員にあてはまるであろうと思われる方法がないこともありません。
もうすでに気付いてらっしゃる方もいると思いますが、それは「時の経過」。
いわゆる「時薬」ってヤツですね。
それ以外となるとあとは自分で見つけるしかないのかも…
もう一度言っておきますが、すべきことは単純なことです。
「人が亡くなるのは当たり前のこと」
これを心にさえ理解させればいいんです。
これができれば、今感じている地獄のような苦しみは軽減されるはずです。
こんなことを書いてみましたが、これらは半人前の当時の私にはすべてできなかったことです。
だからこそ、今死別で苦しんでいるどなたかへのちょっとしたヒントにでもなればという思いで書きました。
みなさんに穏やかな日々が少しでも早く訪れますように。
※なお、そもそもこの考え方に賛同できないという方はご容赦ください。