大切な人を亡くすと、残りの人生ってなんか消化試合みたいな感じがしますよね?
生きる気力もなくなるし、人生の目標もなくなるし…
- 何のために生きてるんだろう…?
- 何をすればいいんだろう…?
- どうすればこの苦痛から抜け出せるんだろう…?
なんてことをいろいろと考えてしまって…
こんな風に「その後の人生に対して生きる価値を見出せなくなる」というのは、死別で残された人間にとっては「あるある」だと思います。
人生をかけて愛した人間が忽然といなくなっちゃったわけですから無理もありません。
楽しいことや嬉しいことを分かち合える人間はもうどこにもいませんし、悲しみを和らげてくれたり憤りをなだめてくれる人間だってもうそこにはいません。
当然やる気なんて一切なくなりますし、生きる価値だってどこにも見出せなくなって当たり前です。
となると、残された人生はどうしましょうか?
これは非常にやっかいでなおかつ大きな問題です。
おそらくですが、識者や真っ当な本などであればいろいろな視点から人生をとらえ直すことを提案し、「それでもやっぱり人生には生きる価値があるんだよ」などといったアドバイスをくれることでしょう。
もちろん、それはそれで事実ですし私も過去にそういった内容の記事を書いた記憶があります。
これはこれで考え方のひとつ。
ただ、こういったアドバイスは死別直後で打ちのめされている人間にとってなかなか耳に入りづらいものです。
というわけで、そんな方々のためにここではさらに別の角度から考えてみましょうか。
「死別後の人生なんて完全なる消化試合であって、生きているのがただの苦痛」
冒頭で書いたとおり、死別直後の人間にとって残された人生ってまさにこんな感じだと思います。
どうやっても前向きにとらえることなんてできないし、前向きにとらえようなどといった気分にさえもならない。
もちろん、当時は私もそういった人間の一人でした。
ちなみに、死別後を消化試合とするなら、それまでの人生は優勝をかけた大一番でずっと試合をしていたようなものです。
大切な人のために生きようとか一緒に幸せになろうとか思って頑張ってたわけですから、おそらく何物にも代えがたい充実感だってあったことでしょう。
それがある日を境に急にすべてを失い、気付いたら誰もいない試合会場にただ一人ポツンととり残されてしまう…
この落差が問題なんですよね。
そしてこの落差が死別の悲しみを大きくする原因のひとつな気がします。
ただ、よくよく考えてほしいんですが「そもそも人生って消化試合」だと思いませんか?
なぜって、生まれた時から死ぬことなんてとっくに確定しているんですから。
これが大袈裟に聞こえるのは、たぶんただ単にこの事実を認識している人間が少ないからです。
だって、死ぬことがわかりきってるのに生きるんですよ。
こんなのどう考えても消化試合ですよね。
きっと、みんなが勝手に「人生には意味がある」と思い込んでしまっているだけで、もしかしたら死ぬことから目を背けているからという理由でこのように思えないだけなのかもしれません。
ええ、心配いりません大丈夫です。
どうせみんな死ぬんですから。
時が経てば、間違いなく誰もかれもすべていなくなります。
こう考えると、大切な人と愛し合いながら仲良くしあわせそうに暮らしている人間の人生だって消化試合ですし、社会的に成功をおさめ巨万の富を得ている人間の人生だっておなじく消化試合です。
すべては、死別直後で途方に暮れているあなたの人生と大差ありません。
ですので、そんな人生と比較する必要なんてまったくありませんし、自分の人生に絶望する必要だってありません。
それに、人生なんてそもそも理由をつけて生きるようなものではないと思いますし、生きる意味を探しながら歩んでいくようなものでもないと思います。
ただただ、その人の思うがまま感じるがままに自由に生きればいいんです。
というわけで、人生についていろいろ考える必要なんてないと思います。
時が経てば絶対に何かが変わるので、まずは疲れた身体と心をゆっくり休めてください。
そう、とりあえずゆっくり寝てみてください。
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