「悲しみを共有する」
この言葉に、みなさんはどのようなイメージを持っていますか?
おそらく、プラスのイメージを持っていると思います。
人に話して気持ちが楽になったという話はよく耳にしますし、共有することで悲しみは半分になるといった表現もあるくらいです。
そう考えると、悲しみを共有することにメリットがあるということはもう常識と言ってもいいのでしょう。
グリーフケアにおいても、悲しみを表現する・悲しみを語るというプロセスは重視されており、死別経験者のための「集い・ブログ・掲示板」などにも、悲しみの共有を目的とするものが多く存在します。
死別に苦しんでいる人間にとってこのような場所は非常に居心地がいいものであり、その居心地の良さゆえにまた多くの死別経験者が集まります。
なにより、誰にも悲しみを口にできずにすべてをひとりで抱え込むことは、非常に苦しいものです。
ここから先は、死別経験者のための「集い・ブログ・掲示板」など、死別経験者が集まる場所を便宜上「会」と呼びます。
居心地
冒頭で触れたように、死別経験者のための「集い・ブログ・掲示板」、すなわち「会」に集まる人間は、悲しみを共有することや自分の気持ちに共感してもらうことを基本的な目的としています。
ですから、「会」には似たような人間が集まることが好ましく、口にこそ出しませんがたいていの参加者もそれを望んでいます。
関係性、時期、境遇など、死別に関する条件も近い方がいいでしょう。
性別、年齢、職業にしても、同じか近いにこしたことはないと思います。
ただ、そのような偶然はあまり期待できないでしょうから、実際には多様な人間が集まることになります。
これは仕方がないことです。
しかし、どんなことがあっても譲れない条件もあります。
それが、「死別に苦しんでいる」という条件です。
正確に言うのであれば、「現在、死別に苦しんでいる」という条件です。
「会」の目的を考えれば、これは当然の条件と言えます。
なぜなら、この条件が守られなければ「会」の平穏は乱されるでしょうし、居心地にも大きく影響するからです。
というわけで、この条件は最低限のルールとして備えておかなければならないわけです。
ちなみに、「会」は平穏と居心地の良さを望むばかりでなく、自らそれを守ろうとします。
言い換えるなら、「会」においては、「会」の基本条件に沿っていること、つまり死別に苦しんでいることが奨励されます。
そしてそのせいもあるのでしょう、「会」には、死別に苦しんでいることこそ素晴らしいことだという価値観が形成されています。
もちろん、「会」そのものが考えをもつわけではありませんので、そのようなに考える人間が存在しているということになります。
にわかには信じられないかもしれませんが、これは「会」を少し覗いてみればわかることですので、気になった方はご自身の目で確認してみてください。
ただ、同時に言っておかなければいけませんが、こういった人間はごくごく限られているということも覚えていてください。
立ち直るということ
さて、少し話を変えて死別からの立ち直りについて考えてみましょう。
人は、どこかの時点で立ち直りに向けて舵を切ります。
本人がその時点を意識できるかどうかまではわかりませんが、いずれにしても人は立ち直る方向へと向かいます。
本来であれば、何をもって立ち直りとするのかもここで議論すべきなのかもしれませんが、今回は飛ばします。
ぼんやりとしたイメージで結構ですので、話を進めていきましょう。
さて、人は立ち直ると言いました。
では、質問をさせてください。
「立ち直ることができる人間と立ち直ることができない人間、どちらになりたいですか?」
似たような質問になりますが、もうひとつ。
「立ち直った人間と立ち直っていない人間は、どちらが偉いのでしょうか?」
誤解を招く前に、二つ目の質問について補足をしておきます。
これは実際に偉いか偉くないかという話ではなく、あなたの頭の中ではどちらを評価するかという話です。
交際相手を亡くした例で考えてみましょう。
「交際相手を亡くしたはずなのに、よく頑張ってるな……」と感じる人間は、立ち直った人間を偉いと評価していると言えます。
一方で、「交際相手を亡くしたはずなのに、よくもまぁ別の人と……」と感じる人間は、悲しみに沈んでいるべきと考えているわけですから、立ち直らないことを期待しており、立ち直らないことを評価していると言えます。
さて、では答えはどうなりましたか?
おそらく、ほとんどの方が立ち直ることができる人間を選んだでしょうし、立ち直った人間を偉いと感じたことでしょう。
これは、死別で苦しんでいる人間にも当てはまることです。
現時点では立ち直ることなど想像もできないような人間であっても、心の底ではやはり立ち直りたいと考えています。
となると、口に出すか出さないか、認めるか認めないかは別として、みんなが立ち直りを望んでおり、立ち直ることをいいことだと考えているわけです。
これは当然だと思います。
立ち直るほうがいいに決まってますから。
これに関しては、誰が何と言おうが間違いありません。
もし疑問に感じるようでしたら、おそらく感情が先行しているのだと思います。
そんな時は、社会や日本にとってどちらがいいのかといった単位で考えてみてください。
そう考えれば、立ち直るほうがいいに決まっていることを理解できるはずです。
なお、たまに勘違いされている方がいらっしゃるのですが、「立ち直ること=故人を忘れること」では決してありませんので、その点については誤解のないようにお願いします。
ひっぱり
さて、では「会」の話に戻りましょう。
再確認ですが、「会」が参加者に望んでいることが何であったか覚えていますか?
「現在、死別に苦しんでいること」
これです。
しかし、つい先ほど書いたように、人は自分の立ち直りを願う生き物であり、少しずつ立ち直り始めます。
ということは、当然「会」の中にも立ち直り始める人間が出てきます。
さて、ここで問題発生です。
どうしましょうか?
というのも、立ち直り始めた人間は、「現在、死別に苦しんでいる」という「会」の条件に少しずつ当てはまらなくなってきます。
それはつまり、「会」の平穏や居心地の良さが脅かされることを意味します。
ここで登場するのが、ひっぱりという行為です。*1
簡単に言うと、立ち直りかけている人間の足をひっぱる人間が出てくるということになります。
では、実際にどのようにひっぱるかを説明していきましょう。
考え方としては、「立ち直った人間」や「死別を経験していない人間」を蔑みながら、「故人を想って悲しみ続けること」を奨励することが基本となります。
ものすごく簡単に言うと、「死別を悲しんでいる人間が一番偉くて、その他は全員ダメ」ということです。
ここで、なぜ死別経験者でない人間まで蔑む必要があるのか疑問に感じるかもしれません。
それは、死別という悲しみを知る特別な存在として自分たちを位置づけ、悲しみ続ける自分たちの価値を高めたいからです。
ちなみに、具体的なひっぱりは発言によるものがほとんどであり、例えば以下のような発言がそれに該当します。
「悲しみ続けることこそ愛の深さ」
「経験したことがない人間にはわからないし、そういう人間は本当の愛を知らない」
「立ち直った人間は、故人を忘れてしまっている」
「早く立ち直った人間は、故人のことを真剣に考えていなかった」
このような感じです。
そして、こういった発言により、「悲しむことが最も素晴らしいことである」と思わせようとするとともに、「このような考え方をすることが死別した人間のあるべき姿」と思わせようとします。
なぜそんなことをするのか?
その理由は2つです。
①「会」の平穏や居心地を守るため
②立ち直りそうな人間に対する嫉妬や劣等感
先ほども書いた通り、「会」では、苦しんでいる姿こそあるべき姿とされます。
これは当然かもしれません。
なぜなら、死別経験者のための「集い・ブログ・掲示板」なわけですから。
自分の周りには悲しみに暮れている人間がいるべきであり、そうであってほしいと思うことも自然なことです。
こう考える人間にとってみれば、立ち直り始めた人間は確かに異質な存在であり、ある意味「会」を乱す不都合な存在でもあるわけです。
ただ、もし不都合であるなら、立ち直り始めた人間を「会」の外に追い出せば解決するはずです。
しかし、2つ目の理由がそうさせてくれません。
嫉妬と劣等感、これらが立ちはだかります。
どういうことかというと、たとえ悲しむことが一番と考えているような足をひっぱる側の人間であっても、立ち直ることが本来の姿であり、立ち直ることこそ偉いという価値観を必ず持っています。
となると、他人が立ち直ってしまうということは、立ち直れない自分を再確認させられることに等しく、立ち直る人間より自分が劣っていることを突きつけられることに他なりません。
この状況を避けたくなることは当然であり、自分が立ち直れない以上、立ち直り始めている人間の足をひっぱるしか方法はありません。
またそれは同時に、自分より偉いと感じている人間、つまり立ち直り始めている人間に対して感じている嫉妬心を満足させることにもつながるわけですから、やはり足をひっぱるという選択をすることになります。
このように、①と②を考え合わせると、「会」から追い出すよりも再び「会」に引きずり込むほうがその人間にとっては喜ばしい結果となるわけです。
仲間意識
では、「会」はいらないのか?
そうではありません。
冒頭で説明したとおり、「会」には悲しみを癒したり気持ちを楽にしてくれたりといった立派な効果があります。
また、多くの人間が自分の話に耳を傾けてくれますし、共感してくれたり、時には慰めてくれたりもします。
さらに、同じ死別経験者だからこそ感じることができるような仲間意識だってそこには存在します。
そういった意味では、これ以上ない環境かもしれません。
しかし、気を付けなければいけない点は、そこには負の感情が満ちており、時期によって毒にもクスリにもなるという点です。
つまり、悲しみを癒すという初期の段階ではクスリとして機能するが、立ち直りの段階では毒となり足をひっぱられる可能性もあるということです。
ちなみに、毒として機能している時の仲間意識は、百害あって一利なしです。
立ち直ろうとしている人間にとって何も生み出しません。
だからこそ、今の自分がどの状況にいるのかは冷静に見極める必要があります。
ネガティブな人間に接しているとネガティブになり、ポジティブな人間に接しているとポジティブになる。
この現象は、なにも一般社会に限った話ではなく、死別に関連する世界であっても同じことです。
当然、人生をポジティブに、すなわち死別から立ち直った状態で生きた方がいいことは言うまでもありません。
だからこそ、環境は伝染するということをしっかりと認識し、接する人間をきちんと選びたいものです。
死別というのは、一歩間違えば死を選ぶ可能性があるほどの混乱した心理状態を生みます。
ですから、そのような状態に自分があることを少しでも意識し、自分の身の置き場にはくれぐれも気をつけるべきです。
これが、私からお伝えできるちょっとしたヒントです。
あなたが少しでも早く死別から立ち直ること、そして限られた人生を少しでも長くポジティブな状態で過ごせることを願っております。
終わりにしようと思ったのですが、ついでですので、足をひっぱる人間の見分け方を書いておきます。
多少の例外はあるかもしれませんが、まぁ間違いないぐらいに思っていただいて結構です。
ポイントは以下の2つです。
- 年数
- 言動
年数というのは、死別を引きずっている年数のことです。
これはもう簡単です、長ければ長いほど危険です。
もちろん、誰と死別したかで差が出るものではありますが、そういったことも含めて言ってますので、単純に考えていただければ結構です。
ちなみに、最もきついと言われる伴侶の死の場合の立ち直りの平均が4年半とのことですので、これが目安となるでしょう。
当然、これを越えているようであれば危険です。
理由は簡単です。
いつまでも死別を引きずる方は、立ち直るような考え方をしないか、できないか、したくないかのいずれかだからです。
もちろん、こういった方が今後どうなるかまではわかりません。
しかし、少なくとも今の時点で引きずるような考え方をしていることは確かなわけです。
そうであるなら、接することでその影響を受けてしまうことに間違いはありませんし、立ち直りという点から考えても、こういった方のそばにいることにメリットは何もありません。
なお、引きずっている人間をダメだと言っているわけではありませんので、誤解しないでください。
ただ単に、立ち直りたいと願っている人間が接する相手として考えた時に、果たして適切なのかどうなのかという話です。
当然、人格を否定するつもりはありませんし、10年以上引きずった残念な人間が私であるということからも、そのことは理解していただけると思います。
では、次ですね。
言動について見ていきましょう。
以下の発言をするような方には要注意です。
- 悲しいよね、いいんだよ無理しないで。もっと泣いていいんだから。
悲しむことこそ素晴らしいと考えている可能性が高いので、死別直後でない限りは極力避けましょう。無理に悲しむ必要もなければ無理に泣く必要もありません。特に、立ち直り始めている時は悲しみや涙が減ってくるものです。そんな時でさえこういった言葉をかけてくる人間には、十分に気を付けてください。
- 死にたい 。
私自身が死にたいと考えていた人間であり、それを実行しようとした人間でありますから、こう考える人間の気持ちはよくわかります。しかし、こういう人間と付き合うことにメリットはひとつもありませんし、全力で避けるべき相手だと言えます。
- 何もしたいことなんかないし、ただ人生が終わるのを待ってる。
これも同じです。気持ちはものすごくわかります。ただ、付き合うべき相手ではないことも明白です。こういう人間と一緒にいると、あなたもそういう人生を送るはめになります。そういう意味でも、やはり全力で避けるべき相手と言えます。
このぐらいにしておきましょうか。
文中でも少し触れましたが、こういった方々は「立ち直る=故人を忘れること=悪いこと」と考えがちであり、悲しんでいる自分が大好きな傾向にあります。
もし、こういった方々とどうしても交流しなければならなくなった時は、この点だけでも思い出してください。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
*1:立ち直ろうとする人の足をひっぱる行為を、私は勝手にこう呼んでいます。