配慮
死別を経験した人間は深く傷ついています。
これは、死別経験者の方であれば理解していることでしょうし、たとえ死別経験がない方であっても容易に想像できることでしょう。
だからこそ、死別で苦しんでいる人間が近くにいた場合、周囲の人間は当然のように気を遣います。
さて、ではこのような時に、周囲の人間がどのような行動をとるのか考えてみましょう。
これは、大きく分けると2つです。
静かに見守るか、それとも声をかけるか。
死別というのは、紛れもなく重大な出来事ですから、その点を強く意識する人間などは「そっと見守る」という方法を選択するかもしれません。
その一方で、「なんとか力になりたい、どうにかして助けたい」と、自身の積極的な関与を前提に考える人間であれば、声をかけるという方法を選択するかもしれません。
もちろん、逆も考えられます。
重大だと思うからこそ積極的な声かけを選択する人間もいれば、力になりたいからこそ今はそっと見守るという選択をする人間もいることでしょう。
どれが正解というものではありませんし、これに関しては人それぞれでいいと思います。
ただ、直接声をかける場合には、より一層の配慮が求められます。
このことに異論はないでしょう。
そっと見守ることと比べると、はるかに高度で繊細な配慮が必要とされるわけです。
しかし、時として行き過ぎた配慮がなされてしまうことがあります。
「配慮が足りないよりはよっぽどいい」と言いたいところですが、もしかすると行き過ぎのほうが罪深いかもしれません。
では、行き過ぎた配慮にはどういったものがあるのでしょうか。
「悲しむことは悪いことじゃない、むしろ素敵なこと」
「すぐに立ち直る必要なんかない」
これらは、行き過ぎた配慮のもとに発せられた言葉の一例です。
よく目にしたり耳にしたりするような発言であり、一見するとなんてことないように思えます。
それどころか、死別で苦しむ人間に配慮した適切な発言とさえ感じられるかもしれません。
しかし、果たしてそうなのでしょうか…?
勘違い
よく考えてみましょう。
これらの言葉は本当に適切なのでしょうか?
「悲しむことは悪いことじゃない、むしろ素敵なこと」
「すぐに立ち直る必要なんかない」
たとえば一つ目の言葉を考えてみましょう。
前半部分の「悲しむことは悪いことじゃない」、この点に関しては正しいと言っていいと思います。
なぜなら、悲しいことがあった時に悲しむというのは、人間の自然な行為であって良い悪いの問題ではないからです。
そう考えると、悪いことではないという表現はある意味で真実と言えるでしょう。
しかし、後半部分の「悲しむことは素敵なことだ」という点に関しては、100%間違っています。
これは、冷静に考えればすぐにわかることです。
おそらくみなさんも、この部分のおかしさにはすでに気付いたことでしょう。
というのも、悲しむことが素敵であることはあり得ないからです。
そんな状況は、世界中を見渡してもおそらくどこにもありません。
望んでいないにもかかわらず悲しまざるを得ないようなことが起きてしまっているのが死別という状況であり、そんな中に放り込まれた本人の気持ちを考えた場合、悲しむことが素敵なんてことは絶対にあり得ないのです。
あくまでも、悲しむしかなくなっているというだけで、もし悲しまないで済むのであればそのほうが100%素敵です。
また、そもそも悲しむ必要がなければ、そのほうがさらに素敵であることも間違いありません。
なお誤解のないように言っておきますが、これは「考え方次第では悲しみにも価値がある」といった次元の話ではなく、「悲しむことと悲しまないで済むことはどちらがいいか」、もしくは「悲しむことと悲しまないことはどちらがいいか」といった次元の話です。
ですから、やはり考えるまでもありません。
では、二つ目の言葉はどうでしょうか?
これはもうわかりますよね、笑っちゃうぐらい適当な発言です。
「すぐに立ち直る必要がない」
そんなわけはありません。
すぐに立ち直るに越したことがないのは明らかな話であり、また、わかりきった話でもあります。
ここでも注意しておきたいのは、立ち直れないことが悪いといった話ではなく、立ち直るのであればいつがいいかという話であるということです。
確かに、すぐに立ち直れなかったり引きずったりしてしまうということはあります。
しかし、それはあくまでも結果の話であって、早く立ち直るほうがいいことにはやはり変わりはありません。
嘘は許されない
ここまででおわかり頂けたと思いますが、要するに嘘は許されないということです。
気を遣おうとしたあまり、ついつい余計な優しさが出てしまったのかもしれません。
遠慮してしまったあまり、ついつい楽な言葉を選んでしまったのかもしれません。
人によっては、単なる言葉のあやだとおっしゃる方もいるでしょう。
しかし、優しさだろうが、遠慮だろうが、言葉のあやだろうが、ダメなものはダメです。
なぜなら、死別に苦しんでいる状態では判断力が鈍っていて、こういった発言でさえ冷静に聞けない可能性があるからです。
それはつまり、これらの言葉を真に受けてしまう可能性があるということを意味します。
考えてもみてください。
これらの言葉を鵜呑みにし、悲しむことが素敵だという考えを持ってしまったら、いつまでも悲しむことでしょう。
同様に、すぐに立ち直る必要がないという考えを持ってしまったら、すぐに立ち直ることも、その努力をすることもなくなるでしょう。
思考は現実化するという言葉があります。
混乱状態にあるからこそ、後ろ向きな考えを持たせないように気を付ける必要があります。
まとめ
人生は限られています。
少しでも早く立ち直ってもらい、少しでも長く有意義な時間を過ごしてもらう。
これが、死別で苦しむ人間を支えるものにとって必要な視点であるはずです。
一緒に悲しむことも大切なことですが、行き過ぎた配慮は何も生みません。
ただ単に寄り添うだけでなく、時には希望に溢れた未来を提示してあげることも私たちの役割です。
立ち直った先にある人生が、実は想像もできないほど素晴らしいものであること。
そのことを少しずつでもいいから伝えていきたいものです。