亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

なぜ死を悲しまなければいけないのか?

 

みなさん、こんなことを考えたことはありますか?

 

「なぜ死を悲しまなければならないのか?」

 

この問いは一見すると難しそうに感じるかもしれませんが、非常に簡単です。

答えは、「そのように考えているから

正確に言うと、「死を悲しいと考えているから

たったこれだけです。

 

もちろん、脳科学や心理学などといったものをベースにした学問的な答えも考えられますが、この場には必要がありません。

 

さて、ここで気付いてもらいたいのは「考えている」という部分です。

ということは、そういった考え方さえしなければ死は悲しくないのか?

これはもう、そのとおりです。

 

 考え方を変える

 

「死は悲しくない」

 

こう考えることさえできれば、大切な人との死別を悲しむ必要はありません。

 

ピンとこないようであれば、少し想像してみましょう。

例えば、「死後の世界が今よりもずっと素晴らしいものである」と考えるなら、死を悲しむことはないでしょうし、むしろ死は祝福されるべきものです。

死者に対しても「人生お疲れさま、楽しい世界へ行ってらっしゃい」ぐらいの挨拶で済むことでしょうし、当然そこに涙は必要ありません。

 

もうひとつ想像してみましょう。

例えば、「死後の世界が存在してそこでまたみんなに会える」と考えるなら、もう二度と会えないと思う必要はありませんし、それを原因として悲しむ必要もありません。

この場合であっても、やはり涙は必要なくなります。

 

どちらも考え方を変えただけの話であります。

すんなりと受け入れられるものであるかは別としても、死を悲しまなくて済みそうな予感は少なからずしたことでしょう。

 

このように、結局はどう考えるかだけの話であって、実は非常に単純な問題なんです。

悲しいと思うから悲しい、悲しいと思わなければ悲しくない

これだけのことです。 

ですから、考え方さえ変えればすべて解決します。

 

 

しかし、現実に目を向けてみるとなぜかみんな死を悲しいと考えています。

 おかしいですね、なぜみんな考え方を変えないのでしょう?

 

実はそこには理由があります。

それは、人間が周囲の環境に影響を受けてしまうという理由です。

 

人間は周囲の環境に影響を受ける

 

ご存知のとおり、人間は周囲の環境に影響を受ける生き物です。

そして、周囲の環境によって人間の考え方は創り上げられます。

※なお、ここから先は、「周囲の環境」を便宜上「文化」と表現しますのでご理解ください。 

 

ですから、死を悲しむ文化の中で生活する人間は、必然的に死を悲しむようになります。

また、周囲の人間が全員その文化に沿った考え方をするわけですから、それと異なる考え方をすることは想像以上に難しく、必然性がない限り、異なる考えを持つことさえないでしょう。

こういったことを通して、考え方は知らぬ間に固定されていきます。

文化によって考え方が完全に創り上げられるわけです。

もちろん、自分自身の考え方ぐらいであれば、無理をすることで変えられるでしょう。

しかし、それはあくまでも無理をしている状態であり、頭のどこかに死を悲しいと考える部分が存在する以上、その努力はあまり意味を持ちません。

そう考えると、死を悲しむ文化に触れてしまっている以上、われわれは既に手遅れと言っていいのかもしれません。

 

人の考え方が文化を創り出し、文化がまた人の考え方を創り出す

一旦このループが始まってしまうと、ここから抜け出すのは至難の技です。

 

となると、諦めざるを得ないのか…

 

いいえ、そんなことはありません。

今度は、少しずつでも文化を変えていけばいいだけの話です。

 

文化を変える

 

もちろん時間もかかるでしょうし、力も必要でしょう。

しかし、不可能かといった場合、文化を変えることは不可能ではありません。

人の考え方の集合体が文化であるなら、人の考え方を少しずつ変えていけばいいだけの話です。

 

幸いなことに、この「死を悲しむ文化」には地理的な要因が関係していません。

人間の考えだけに基づいて出来上がっている文化です。

だから、やはり変えることは可能なわけです。

 

なお、地理的な要因と結びついてしまっている文化は変えられません。

寒い地域での「厚手の服を着る文化」

こんな文化は変えようもありませんから。

 

 

さて、なにはともあれ、文化が変えられることとその方法がわかりました。

考え方を変える

これだけです。

莫大な時間とパワーが必要なことは間違いなさそうですが、単純なことであることに変わりはなく、あとはこれを進めていけばいいだけです。

 

というわけで、一件落着といきたいわけですが、そうもいきません。

なぜなら、このままでは何も変わらないからです。

「人の考え方を変え、文化を変える」

誰かが、この努力をしなければいけません。

さもないと、人の死を悲しまなくて済む日は永遠に訪れないでしょう。

そしてそれが今まで繰り返されてきたことです。

 

それに、私にはひとつ疑問があります。

 

疑問

 

疑問というよりは、納得できないといったところでしょうか。

もしかしたら、ムカついているといったほうが正確かもしれません。

 

そのことを説明する前に、いくつか確認しておきましょう。

一つ目は、宗教の起源です。

日本を想定して進めますので、仏教で考えていきます。

起源は約2500年前、そして日本に伝わったのは6世紀ですから、約1500年前といったところです。

二つ目は、人の死に際しては日本人の多くが仏教の考え方を参考にするということです。

この二つだけでいいので、少しのあいだ覚えていてください。

 

では、私が感じる疑問について説明していきましょう。

先ほども言ったとおり、日本を想定して進めていきます。

 

歴史上の死者の数を累積で考えた場合、そのグラフは右肩上がりとなります。

累積ですから当然です。どんどんと増え、減ることは決してありません。

では、仏教が伝来した1500年前から現在までに、何人が亡くなったのでしょうか?

 

過去から現在までの死者数は約5億人という推計があるようです。となると、1500年前からと考えた場合は、この数値よりやや少ない人数ということになると予想され、ここでは仮に4億人としておきます。

 

というわけで4億人です。

仏教が伝来した1500年前から、現在までに4億人もの日本人が亡くなっているわけです。

言い方を変えるなら、日本人は4億人もの死を経験してきたわけです。

 

にもかかわらず、なぜいまだに日本人は死を悲しんでいるのでしょうか?

なぜ、人の死に際していまだに仏教を参考にしているのでしょうか?

 

4億人の死から何を学んできたのでしょうか?

なぜこんなにも同じことを繰り返すのでしょうか?

 

私にはまったく理解ができません。

 

悲劇

 

日本人がいまだに死を悲しんでいるということは、「死を悲しむ文化」を誰も変えてこなかったことを意味します。

4億人もの人間が亡くなる間、すなわちこの1500年間、日本人はずっと同じことを続けてきたわけです。

誰かが亡くなるたびに悲しんで、誰かが亡くなるたびに苦しい思いをするということを…

 

まさに悲劇です。

 

だって、考えてもみてください。

人が死ぬことは最初から決まっているわけです。

であるなら、人の死をできる限り悲しまなくて済む方法を考えておくべきです。

そしてその方法とは、「死が悲しくない文化」を創り出すことに他なりません。

もしこれが過去にしっかりと行われてさえいれば、現在の日本人は死を悲しむ必要もなく、気持ちよく故人を見送ることができていたはずです。

 

人が死に真剣に向き合い、きちんと後世のことを考えていれば、こういった文化を作っていこうという配慮はできるはずです。

にもかかわらず、日本人が繰り返して来たのは、毎回毎回悲しむという愚行です。

 

私は日本が好きなので、文句は言いません。

でも一つだけ言わせてもらいたいのは、

「マジで勘弁してくれ」

 ということです。

 

とはいっても、何もしなければ私も愚かな日本人になってしまいます。

だから私は、死が悲しくない文化を作るために、自分のできることを進めていきます。

 

なお、先に言っておきますが、私たちが死を悲しまなくなることはもう不可能ですので、あきらめましょう。

いくら自分の考え方をコントロールしたとしても、死を悲しむ文化で育ってしまった以上、そこからはなかなか抜け出せません。

ですから私たちに関しては、死別の悲しみをどうやり過ごすかといったところを工夫するしかありません。

しかし、未来の人間は違います。

死を悲しまなくていい文化を用意してあげて、その中で育つことさえできれば、未来の日本人が死別の悲しみに悶え苦しむことはないわけです。

それは大いに価値のあることであり、私は日本人としてそんな文化を後世に残してあげたいと考えます。

 

 

なお、人の死をどうしても悲しみたいのならそれはそれで構わないと思います。

ただ、人の死を悲しむことにそれほど意味があるとは思えませんし、それは文化を変えようとすることや、自分の常識では理解できない考え方を恐れているだけかもしれません。

 

中には、死別の悲しみや喪失体験が人を成長させるという人間もいます。

確かにそうかもしれません、現に私は死別を経験して変わりましたから。

ただ、そんな成長であっても、死別以外の喪失体験できっと学べるはずです。

そもそも、死別の悲しみという考え方自体、死を悲しいと考える今の文化が生み出した価値観であり、常識にとらわれている証拠です。

極端に言えば、文化が変われば、死別は喜びに変わる可能性すらあるわけです。

そう考えると、自分が常識にとらわれていることに気付くことでしょう。

もう、常識や文化の中で考えるのはやめましょう。

日本人にとって、そして人類にとって、一番いいことは何か?

そういった視点から物事を考えてみたいものです。

 

死が悲しくない文化が出来たとして、なにか不都合がありますか?

その不都合は、常識で考えた不都合ではありませんか?

そして、その不都合は他のもので代替できませんか?

 

誤解してはほしくないのですが、これは洗脳でもなければ、詭弁でも、屁理屈でも、絵空事でもありません。

物事をどう考えるか、たったそれだけの話です。

それだけで未来のためにより良い文化が創り出せるのであれば、それはもうやるしかないわけです。

 

 

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