亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

これもまた人生の岐路

 

 

ニュースでご覧になった方も多いと思いますが、この週末はセンター試験ですね。
寒い中大変だとは思いますが、誰もが持てる力を発揮して悔いのないものにしてもらいたいものです。
また、もしかすると職員の方が一番大変なのかもしれませんが、受験生の負担になってしまうような重大な進行ミスなどが起きないことも願っています。

 

 

と、ほんわかするようなことを書いてみましたが、これは競争でもあるんですよね…
たとえ全員が自分の持てる力を発揮したとしても、そこには必ず点数がつき、そして順位がつくことになります。
したがって、希望の大学の門をくぐるためには、受験生は限られた枠をめぐる競争に打ち勝つほかありません。
いくら大学全入時代とはいっても、やはり競争は尽きないわけです。

 

 

 

ところで、受験シーズンが訪れると、私は「学歴差別」という言葉を思い出します。
昔ほど騒がれることもなくなりましたが、就職の季節になると話題にのぼる言葉のひとつでもあります。

 

 

この言葉の意味自体はみなさんご存知だと思いますが、ものすごくざっくり言うなら「出身大学によって応募者を不当に低く評価する」ということになります。
つまり、選考の基準のひとつに出身大学というものが含まれており、それが応募者の選考結果に差別的な影響を及ぼすというものです。

 

 

念のため、少し極端な例を挙げておきましょうか。

 

とある2人の人間がいて、性別は同一、どちらも同姓同名、外見も中身もまったく一緒、育った環境も変わらず、異なるのは出身大学のみ。

 

こういったケースにおいて、盲目的により良いとされるほうの大学出身者を採用すること、逆に言えば盲目的にもう片方の不採用を決定することはおそらく学歴差別ということになるでしょう。

 

 

とはいっても、こんなケースは絶対にありえません。
なぜなら、異なる大学に進学している時点で、そこで身に付けたものには必ず差が生まれているはずだからです。
もちろん、それが大学の良し悪しに比例しているとまでは言い切れませんが、両者に差が存在するという点については疑いようもありません。
それに、もし学歴を判断材料としない場合、このケースであればどちらを採用しても構わないということになるはずですから、どちらを選んでも結局文句は出ないはずです。

 

 

さて、そんな学歴差別ですが、みなさんはどう思いますか?
ちなみに私は、差別か区別かといった議論は抜きにして、学歴を判断材料にすることに関してはまったく疑問に感じません。
というより、「社会においてはみんなが当たり前のようにやっていることでしょ?」と感じています。

 

 

誤解しないでもらいたいのですが、この「社会においてみんなが当たり前のようにやっていること」というのは学歴差別を指しているわけではありません。
これが指しているのは、「実績で人を判断すること」です。

 

 

少し考えてみればわかるとおり、みなさんにだってそういった経験はいくらでもあるはずです。

 

 この人は以前にこんなことをしてくれたから、今回もお願いしよう。

→これって実績で判断してますよね…?

 

この人は今までにこういった活動をしてきているから投票しよう。

→これも実績で判断してますよね?

 

この人(もしくは会社)はきちんとお金を返してくれるから、今回も融資しよう。

→これももちろん実績ですよね?

 

 

では、これはどうですか?

 

この人はこの大学に入るためにこれだけの努力をしてきた、また、少なくとも4年前にはそれだけの努力ができた人である、だから採用しよう。

 

 

これも実績ですよね?

 

 

なのに、最後のことにだけ抵抗を感じる方がいるんです。
これが私にはどうにも理解できません。
考えてもみてください。
みんながわけもなく遊びたがる時代に、その人間は「勉強をするという選択」ができた人間なんですよ。
そして、「努力すること」ができた人間でもあるんです。
となれば、そうではなさそうな人間と比べた時、企業がそちらを選ぶのはごくごく当たり前のことでしょう。

 

 

結局、学歴差別の件についてはどの角度から聞いても単なる負け惜しみにしか聞こえないんですよね。
「要は採用されなかったことに不満があるだけでしょ?」って思ってしまいますし、学歴を判断材料として「区別」しているだけなのに、それを差別だと騒いでいるだけのようにしか思えません。

 

 

ちなみに、こういった話には「教育を受ける機会や環境に恵まれなかった人間にとっては不公平」とかそういった発言もつきものですが、それはそれでまた別の問題です。
とても一企業に対して持ち出す話ではないと思いますし、別のところで議論して解決すべき話だと思います。
第一、利益を追求する組織である企業に入ろうと考えている人間が、採用の時だけ「実績」や「実績に基づいて期待されるこれから生み出すであろう利益」を度外視して、自分の可能性に賭けてくれなんて主張するのは、あまりにも虫がいい気がします。

 

 

なお、このあたりのことは「もし自分が誰かを採用する側になったら…」と考えればすぐにわかります。
にもかかわらず、いまだに学歴差別がどうこうなどとちらほら聞こえてくるのは、やっぱり不思議ですよね。
たぶん、誰かが世論を誘導したいのかもしれません。

 

 

 

最後に

 

 

思いのままにこんなことを書いてはみましたが、ハッキリ言って人生なんてどこからでもやり直せるはずです。
ですから、仮に受験や就職に失敗したとしても、次の道を探せばいいだけの話です。
また、勉強をしてこなかったことを後悔するのであれば、そこから勉強をすればいいだけの話です。
 

 

とはいっても若者はこの記事を読みませんので、私たちに置き換えて考えみましょうか。
その場合であっても、やっぱりそのままです。

 

 

死別という「人生における挫折ともいうべき出来事」を経験した私たちは、言ってみれば受験や就職に失敗した人間のようなものです。
同じような重さという意味では決してありませんが、「想像していた結果と異なる結果を突き付けられた」という意味では同じと言ってしまってもいいでしょう。

 


しかし幸いなことに、若者たちと同様に私たちも人生をやり直すことができます。
誰にだって、挫折を経験した地点からまた新たな人生を構築することはできるはずです。

 


近頃、「人は何歳からでも学びなおせる」というフレーズをよく耳にする気がしますが、これはもう本当にそのとおりだと思います。
同様に、生き方だって何歳からでも変えられるはずです。
自分の人生が終わるまでは、何かを始めるのに遅すぎるなんてことはきっとないんでしょう。
ですから私も、24歳の時に一度はすべてが終わったと感じた人生を、少しずつやり直しているわけです。

 

 

といった感じで、みなさんの人生が少しでもいいものとなるよう願っています。

 

 

 

 

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