亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

恵まれているのかも

 

 

 

私は24歳の時に交際相手と死別したわけですが、当然のことながら決して経験したくなかった出来事でした。


死別によって多くのことを学んだとはいえ、今でもこの思いに変わりはありません。

 

 

ただ、どこにも良い部分なんか見当たらない出来事のはずですが、それが私の若い時に起きたという部分に関してだけは、「良かった」と言っていいのかもしれません。

 

 

誤解しないでほしいのですが、これは大切な人が若くして亡くなったことを「良かった」と言っているのではありません。
そうではなくて、あくまでも私自身にとってということです。
つまり、「もし私が人生において大切な人との死別を経験しなければならないのだとしたら、それは果たしていつが良かったのか」という話で考えた時、それが若い時であって「良かった」という意味です。

 

 

というのも、私は立ち直るのに相当の時間を必要としました。
ですから、もしあの時すでに年を重ねてしまっていたら、下手をすると立ち直ることなくこの世を去ることになっていたのかもしれません。
ただ実際は、24歳という若さのおかげもあって、無事に命のあるうちに立ち直ることができました。
それだけでなく、平均寿命から考えるなら、まだ何かをするための時間さえ残っています。

 

 

もしこうでなかったなら、はっきり言ってぞっとします。
なぜなら、「人生は不公平だ」「最悪の人生だった」などと不平不満を言いながら死ぬことになっていたかもしれませんし、他人に当たったり他人を恨んだりしながら人生に幕を下ろすはめになっていたかもしれませんから。

 

 

それはさすがに嫌です。
それに、大切な人と出会わせてくれた人生ですから、その感謝も忘れて恩を仇で返すようなダサいことはしたくありません。

 

 

と考えると、やはり早くて良かったのでしょう。

 

 

第一、遺される人間に限って言うなら、どうせすべての人間がいつかそういった局面を迎えるわけです。
そこにある差は「早いか遅いか」…ただそれだけです。
であれば、やっぱり早くて良かったと思います。

 

 

とはいっても、一つだけ大きな問題点があります。
それは、死別を経験するのが早ければ早いほど、その分相手も若くして亡くなってしまうということです。
しかし、こればかりはどうしようもありません。
この点に関してはあきらめるしかないでしょう。

 

 

 

最後に

 

 

若くして亡くなる人間は多くありません。
ですから、「なぜ自分たちだけがこんな目に」といった気持ちになることはよく理解できます。
ただ、いくらそんなことを考えても起こった事実は何一つ変わりません。
それに、そういった気持ちは怒りや恨みといった感情につながるため、増幅されてしまうだけです。

 

 

そもそも、納得できる死なんて存在するのでしょうか?

 

 

大切な人にとっては酷なことでしたが、それはもう仕方のないことです。
いつまでも根に持っていても、誰も永久にその埋め合わせはしてくれません。
であるなら、少しずつでも良いほうに考えるべきでしょう。

 

 

私たちはきっと恵まれてるんです。
だって、立ち直るための時間と立ち直ってからの時間がたくさん残っているわけですから。
だから、大切な人がいなければ意味がないなんて言わずに、人生に感謝しながらこれからを生きていこうと思います。

 

 

 

 

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