「立ち直った人間」と「想い続ける人間」
一見すると正反対の人間に感じるかもしれません。
しかし、実際は違います。
なぜなら、立ち直った人間の中にも大切な人を想い続ける人間がいるからです。
私もそういった人間の一人ですし、おそらくこういった人間は星の数ほどいらっしゃることでしょう。
これは言い方を変えると、立ち直っても故人を想い続けることはできるということです。
なぜわざわざ言い方を変えたかというと、死別で苦しんでいる人の中に、「立ち直った人間」と「想い続ける人間」の2種類しかいないと考えていそうな方がいるからです。そしてそういった方は、この2つの人間をそれぞれ正反対の人間であると考えているようにも感じます。
もっとも、これだけなら特に問題はないのかもしれません。ただ私には、そういった方々に関して心配なことが2つあります。そのひとつは、この2種類の人間について考える時に、「それぞれの理想形を頭に思い浮かべてしまっていないか」ということであり、もうひとつは、「その理想形を目標としてしまっていないか」ということです。
ちなみにこの場合の理想形とは、立ち直った人間に関して言うと、悲しみの感情などが完全に消えており、誰から見ても元気で、完全に元通りの生活を送っているといった状態です。また、想い続ける人間に関して言うと、故人のことを常に考え、悲しみを直視し続けるといった状態です。
なお、この2つの状態が本当の意味で理想であると言いたいわけではなく、そういった方々がこのような状態をそれぞれの理想形として捉えているように感じるということですので、その点は誤解のないようにお願いします。
立ち直りたいと思うか、それとも想い続けたいと思うか。これは人それぞれです。
しかし、もしそれぞれの理想形を目標としているのなら、そこにたどり着くことはおそらく不可能でしょうし、その理想形を目標とし続ける限り、現実の自分とのギャップに気付き、自分を責め続けることになるでしょう。
考えてもみてください。
- 大切な人を亡くした悲しみが完全に消えるということがあり得るでしょうか?
- また、完全に元通りの生活になるということがあり得るでしょうか?
想い続ける人間についても同じです。
- 故人のことを常に考えるということができるでしょうか?
- ひたすらに悲しみを直視し続けるということができるでしょうか?
おそらく、どれも不可能です。
立ち直ったとしても、大切な人のことを想えばやはり悲しみが湧き上がるでしょうし、大切な人を亡くした以上、生活が完全に元通りになるなんてことは絶対にあり得ません。
想い続ける場合にしても同様です。ふとした瞬間にまったく別のことを考えていたり、少しの間大切な人のことを忘れていたり、悲しみを感じていない瞬間があることに気付いたり、こういった場面は必ず出てきます。。
ですから、理想形というのは決してたどりつかないゴールなんです。そうである以上、そこを目標としている限り、いつまでも自分自身とのギャップを感じさせられることになります。そしてそれは、「完璧に立ち直れない自分はダメな人間だ」、「少しでも故人を忘れかけている自分は薄情な人間だ」といったように、自分を責めることにつながってしまいます。
こういった方に伝えたいのは、「立ち直った人間」と「想い続ける人間」しかいないということ自体が偏った考え方であるということと、それぞれについても理想を追い求める必要がないということです。
死別を経験した人間の感情は複雑です。0か100かといった簡単な話ではありませんし、2つに1つといった話でもありません、この両者を行き来する人間もいれば、それぞれの中で揺れ動く人間もいるわけです。
だから、中途半端でいいんです。どちらかに決める必要もありませんし、理想を追い求める必要もありません。なにより、人の心は揺れ動きます。立ち直ったと思ったのにまた急に悲しくなったり、想い続けたいのに感情が薄れたり、こんなことは当然のように起こります。
だから、中途半端でいいんです。
いろいろなことを決めつけてしまうと、自分を責めてしまうばかりで苦しくなります。傷ついている自分を守れるのは、きっと自分の考え方だけです。だからこそ、時には中途半端な自分を許し、中途半端なまま進んでいきましょう。
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