亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

天邪鬼

 

今だからこそ言えることですが、死別した当時の自分を振り返ると、おかしな考え方や行動が多々あったように思います。

その中のひとつが「自分の気持ちについて」です。

念のため当時の私の心境を説明しておくと、基本的には「悲しい」ということで間違いありません。大切な人を亡くした悲しみの中にいたわけですから、これはいたって普通なことです。

では、そんな自分の気持ちについて私はどんな風に考えていたのでしょうか…?


「つらい自分の気持ちをわかってほしい、かといって全部わかったつもりになられても困る」

簡単に言うとこんな感じです。
私の感情を、私にとって最も都合よく理解してくれる人間を求めていたと言えばいいのでしょうか…

当然のことですが、私の気持ちをまったく理解してくれないのはやっぱり困ります。
なぜなら、周囲がそういう人間ばかりではいろいろなことに対して死別という言い訳が使えなくなってしまいますので。
私としては、自分がやりたくないことに関しては基本的に死別を理由にしたいわけです。そして「とてもじゃないけどそんな気にならない」と言って終わらせたいわけです。ですから、死別によって傷ついた私をある程度理解してもらうことは絶対に必要でした。それだけでなく、「そっか、それじゃあ仕方ないね、つらいもんね」といった言葉や同情も期待していたような気がします。

だからといって、理解され過ぎるのも問題です。
その証拠に、私の気持ちがわかるという人間に対しては「同じ経験もしてないくせに何がわかるんだよ」とも思っていました。
大切な人を亡くした気持ちをそんなに簡単に理解されても困るんです。

それはなぜか?

自分でもよくわかりません、ただ自分の中のなにかプライドめいたものが許さかったような気がします。それは、亡くなった人間がそこらへんにいる人間ではなく、特別な人間なんだという意識が強かったからなのかもしれません。
また、悲しみを完全に理解されてしまうと、これ以上いつまでも悲しんでいてはいけないような気になるというのも理由のひとつだったのかもしれません。この点に関しては、「自分にしかわからない悲しみがある」ということをいつも切り札のように考えていたような気がします。

このように、当時の私はとんだ天邪鬼だったわけです。
今考えると本当におかしな話ですが、なぜか当時はそんな感じでした。
どこまでも自分の都合のいいように考えようとしていましたし、それを相手にも求めていました。
もちろん若さのせいもあったとは思います。
ただ、本当の理由はどうなんでしょう、よくわかりません。

いずれにしても、今は故人の気持ちを優先して考えられるようになれたので、自分でもホッとしています。いつまでもあんな調子では、周囲の人間もたまったもんじゃなかったはずです。


人は成長できるということなんですかね。


 

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