去年のことですが、とある理由により「遺族の集い」に参加してみました。
今回はその時に気になった点について書いてみます。
先に断っておきますが、過去にこういった集いに参加したことがないため、他の団体に関しては知りません。私が参加した集いに関する話ですので、予めご了承ください。
気になった点はいくつかあるのですが、とりあえず3つをご紹介します。
①同じような方々が継続して参加しているということ。
②新規参加者の疎外感
③悲しみを共有するのみで、明るい雰囲気がない
では、説明していきましょう。
①は、この3つの中で最も気になることです。
というのも、早い遅いの差こそあれ、本来であれば入れ替わりがあってしかるべき集いであるはずだからです。
死別直後の悲しみを分かち合うことによって、自分ひとりではないということに気付いてもらい、そのうち立ち直りの道を模索してもらう。これが集いの目的であるという以上、やはり立ち直って離れていく人間がいなければいけません。
それにもかかわらず、同じような人間が継続して参加しているというのはどうも腑に落ちません。
ただ単に気心の知れた人間同士が集まっているだけのような印象を受けましたし、かといってその方々が前向きかと考えると、どうやらそうでもないのです。
これは効果を発揮していると言えるのでしょうか…?
もちろん、悲しみの共有という点に関しては意味があるのでしょう。
ただ、最終的に立ち直るというところまでを考えた場合、私には判断がつきかねます。
次に②ですが、これは強烈に感じました。
参加した私自身が感じたのはもちろんなのですが、その後の新規参加者に対する扱いを見ても、新規参加者が疎外感を感じているであろうことは手に取るようにわかりました。
本来であれば、新規参加者こそ最も悲しみを共有したいと考えている人間であり、もっとも勇気を振り絞って参加している人間です。
当然のことながら、最も大切に扱われるべき存在です。
にもかかわらず、あれほどのお仲間感を出されてしまうと、悲しみを分かち合うどころか、かえって傷ついてしまうことさえあるのではないでしょうか。
そう考えると、私が出会った新規参加者が次回以降現れなかったことも当然なのかもしれません。
最後に③ですが、悲しみを共有するというのが目的である以上、これは致し方ないのかもしれません。しかし、たとえそういった集いであったとしても「悲しいね」だけではいけないような気がします。なぜなら、それがいつまでも前を向くことができない原因のひとつでもあり、結果として①を招いていると私は思うからです。
おそらく、マイナスの感情に偏りすぎないように司会や進行役がうまくバランスを取る必要があるのでしょう。もしかしたら、司会や進行役の力量にすべてがかかっていると言ってもいいのかもしれません。逆に言うと、もしそのバランスさえ取れていれば、①のようになることはないのでしょう。
死別界隈にはいろいろな団体やグループがあります。
これも毒にも薬にもなるはずです。
悲しみを共有できるという意味ではプラス面も多いのでしょうが、立ち直るということを考えた時、いつかは必ず卒業していくものです。
そうであるなら、ふと気付いた時に周囲にいつものメンバーしかいないのは、きっと危険のサインだと思います。
そして、それはもしかすると自分の中で何かを変えるべきタイミングなのかもしれません。
集団やグループは居心地がいいものです。
だからこそ、自分たちが立ち止まっていないか、周りの人間を排除してしまっていないか、偏った考え方をし始めていないか…
こういったことは常にチェックしたほうがいいのかもしれません。
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