悪いところや間違いを指摘されて怒って何も変えようとしない人と、それを感謝して改善しようとする人と…
世の中にはこんな感じで2種類の人間がいるような気がしますが、みなさんであればどちらの人間になりたいでしょうか。
私はもちろん後者です。
これはまぁ当然ですよね。
自分が成長するチャンスを自ら放棄するなんてもったいなすぎると思いますし、それを繰り返すことで誰も指摘してくれなくなれば、自分が気付かなかった過ちを知ることも、それによって成長するチャンスも逃すことになってしまいますから…
にもかかわらず怒る人って、だからこそ悪い部分が変わらないのでしょうし、悪い部分が変わらないからこそ指摘されがちなんだと思うんですよね…
もちろん、指摘される側から考えれば「指摘のされ方」というのは少なからず論点となるのかもしれません。
ただ、指摘が悪意に基づくものにしろ善意に基づくものにしろ、それが実際に悪い部分や間違いがあることを自覚させてくれるものなのであれば、「指摘のされ方」というのは実は大した問題ではないような気がします。
というのも、指摘された側がうまく対処すればいいだけの話ですから。
ちなみに、指摘を拒絶されてばかりだと、「もうコイツはいいや」となるのが人間です。
そうなると、それ以降の指摘は期待できなくなりますし、あとに残るのは自分で自分を磨いていく方法だけです。
ただ、自分で自分を磨くしか方法がないというのは、相当険しい道を進むことを意味しています。
それは、幼少の頃からいろいろな人にさまざまなことを教わることで成長してきたことを振り返れば、きっとすぐに理解できるでしょう。
とはいえ、自分で自分のことをきちんと磨き続けられるのであればさほど問題はありません。
しかし、他人からの指摘を謙虚に受け止められない人間が、自分をしっかりと見つめながら自分を磨き続けることができるとも思えません。
となると、あまりにも残念なことですが、そこにはやはり「どの面においても進歩が見られない人間」が誕生することになります。
また、周囲の人間は他の人間からの指摘や忠告、アドバイスなんかを柔軟に取り入れながら成長していくわけですから、よっぽどのことがない限り圧倒的な差をつけられるでしょうし、はるか後方にも取り残されるでしょう。
いえ、もしかすると今がすでにその取り残された状態なのかもしれません…
このあたりは、以前に記事にしたことと通じるものがあると思います。
つまり、物事のプラス面とマイナス面のどちらを見ようとするかで劇的な違いが生まれるという、あのパターンです。
仮にそれと照らし合わせてみると、「他人に指摘されたことを感情的にしか受け止められず、怒るという原始的な対処をすること」は、当然のことながら「他人が指摘してくれたこと」のマイナス面に注目しているからこそ生まれる行為と言えるでしょう。
それに対して、「指摘は指摘で真摯に受け止め、自分の悪いところや間違いを直ちに改めること」というのは、「他人が指摘してくれたこと」のプラス面を意識することによって導き出された行為と言えるでしょう。
たぶん、人と人との差ってこうやってどんどんと広がっていくんでしょうね。
まぁ「指摘されて多少イラっとする気持ち」はわからないでもありませんが、自分にとってプラスになることを教えてくれているわけですから、やっぱりできるだけ好意的に対処するべきだと思います。
そうすれば、次回以降も指摘をしてくれるでしょうし。
第一、指摘してくれた方は別に競争相手でもなんでもないわけですから、そこで対抗心を燃やす必要なんてありません。
こういった流れで言うと、死別という一見マイナス面しか見当たらないような出来事においても、できる限りプラス面を見つけようとする姿勢で臨みたいものです。
そういえば、死別経験者は「大切な人を亡くして何がしあわせなのか身に染みてよくわかった」といったことをよく口にしますが、これなどは死別してはじめて学ぶことが出来たという意味において、プラス面のひとつと言える気がします。
もっとも、もしそれを本当に学んだというのであれば、他人のしあわせにケチをつけることなんて絶対にあり得ないのでしょうけど…
少なくとも「1分1秒でも長く一緒にいるべきだった」と後悔した経験がある私はそう思います。
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