亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

そこに感じる違和感

 

 

 

死別界隈においては、悲しみが肯定されることも多く、悲しむことが奨励されているシーンに遭遇することもよくあります。
これはみなさんもご存知のとおりでしょう。
※死別界隈というのは、死別ブログ関連だけを指しているわけではありませんので、誤解のないようにお願いします。

 

 

ただ、正直に言うと、私はこういったことに未だに面食らっている部分があります。
そして、何かしらの違和感を感じてもいます。
今回は、その違和感の正体がなんとなくわかってきたので、少しだけそれについて触れてみることにします。
とはいっても、うまく文章をつながないと炎上しそうな話でもありますので、若干躊躇しているというのが本音でもありますが…

 

 

まぁ、でも書かないよりはずっといいですよね、というわけで書いてみます。

 

 

 

 

 

 

子供の頃から、悲しいのはあまりいいことではないと教わってきました。
また、自分の経験を通して、私はそれを学んでもきました。
現に、悲しみを感じるのはいつもよくないことが起きたあとだったように記憶しています。
その傾向は、大人になっても特に変わることはありませんでした。
したがって、悲しみに対する私の考えが変わることもやはりありませんでした。
また、周囲を見渡しても、みんなだいたい同じような感覚でいるように見えました。

 

 

しかし、最近になって、少し違った世界があるということを知りました。
それが死別界隈です。

 

 

前述したように、そこでは悲しみが肯定されることが多く、悲しむことが奨励されている場面に遭遇することさえままある…そんな場所です。
と同時に、悲しみを否定すればたちまち炎上し、悲しむことを奨励しないようなスタンスでいると、寄り添っていないとさえ言われかねない…そんな場所でもあります。

 

 

もっとも、死別を共通項として集まる場所ですから、悲しみがその世界を包むのは当たり前でしょうし、悲しみがその世界の大きな構成要素である以上、このような状況も必然と言えるのかもしれません。

 

 

ただ、悲しみや悲しむことを、必要以上に神聖視したり、必要以上に美化したりしていませんか?

 

 

これが、個人的に感じているところであり、少なくとも私の目にはそう映る時が多いように思います。

 

 

どう表現すればいいのかわからないのですが、「死別をきっかけに、みなさん悲しみに対する考え方を180°変えちゃったのかな…?」とか、「死別をきっかけに、みなさん今まで学んできたことを忘れちゃったのかな…?」とか、そんなことを考えてしまうことさえあります。

 

 

悲しいのは仕方ありません。
そんなことはわかっています。
でも、悲しみはよくないものです。
同様に、悲しむこともないほうがいいことです。

 

 

これ、たまには誰かが言わないと、たぶん誰も言いませんよね?

 

 

私が心配なのは、あんまり悲しみを持ち上げてばかりいると、悲しめば悲しむほど愛が強いとか、悲しむことは素晴らしいことだとか、そんなことを本気で信じてしまう人間が出てきかねないということです。

 

 

繰り返すつもりもありませんが、悲しいのは仕方ありません。
でも、習いましたよね?
悲しみはよくないものだって。
それに、言葉だけでなく、それは自身の経験を通じて学んできたことでもありますよね?
そう考えると、悲しみというのはやっぱりそこから脱却することを考えるべきものですし、悲しむという行為の効用も、あくまでも臨時的・限定的なものであると認識すべきだと思います。
死別だからといって、このことに変わりはないのではないでしょうか。

 

 

こういったことを書くと、好きで悲しんでいるわけじゃないとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうね。
もちろんです。
私は悲しんでいる人を責めているわけではありません。
ただ単に、悲しみを必要以上に特別視しがちな点や、悲しむ行為をことさらに奨励しがちな点に対して疑問を投げかけているだけです。
ですから、自分に限ってはそうではないと思うようであれば、私の話は気にしないでください。

 

 

さて、ではなぜこんなことになっているのでしょうか?
その理由も、私なりになんとなく考えてみました。

 

 

それはたぶん構造的な問題です。

 

 

死別界隈においては、遺された人間こそが正義であり、それを否定しようとするものはいかなるものであっても悪です。
当然、それを悪たらしめているのは、遺された人間への「同情」です。
これが構造的な問題であり、その根幹にあるのは「悲しんでいる人はかわいそう」という認識です。

 

 

こういった認識がある以上、その人を肯定することが正義で、逆は悪…
誰も悲しんでいる人を刺激したくありませんし、傷つけたくもありません。
ですから、こうなるのも当然の結果なのかもしれません。
ただ、これはジャーナリストなどによる戦況報告とかと似た状況で、問題をすり替えているように感じます。
よくありますよね?
かわいそうな写真を見て、まるでそちら側が被害者でなおかつ正義であるように感じてしまうといったあのパターンです。
被害者なのは間違いありませんが、正義かどうかはまったく別問題です。
死別経験者の場合も、被害者と考えられるという点は間違いないのでしょうけど、それが正義か否かと問われれば「それは次元の異なる話である」と言わざるを得ません。
つまり、かわいそうだからといって、悲しみや悲しむことが素晴らしいとはならないということです。

 

 

よく考えてみましょう。
悲しむことっていいことですか?
そんなに悲しみが好きですか?

 

 

悲しみはよくない…

 

 

これはなにも、死別して感じる悲しみを否定しているわけではありませんし、
悲しみを表に出すなと言っているわけでもありません。
「悲しみはイヤだよね」という意味で悲しみを否定しているだけです。

 

 

悲しむことはよくない…

 

 

これも、悲しんでいる人間を否定しているわけではありません。
「悲しむことはないほうがいいよね」という意味でそれを否定しているだけです。

 

 

本来なら冷静に考えるまでもありません。
誰にとっても「悲しみ」や「悲しむこと」なんてないほうがいいに決まっています。
結局、私たちが死別以前に自分の経験を通して学び理解してきたことは、まさにそのとおりなんです。
しかし、死別した人間が集まる世界においては、悲しみを否定することがまるでタブーであるかのように扱われがちです。
結果的に、誰もがそれを口にしなくなりますし、そういった状況が続くことで、それを信じ始める人間が現れます。

 

 

否定しろとまでは言いません。
しかし、少なくともそこから抜け出すことを考える必要はあると思います。

 

 

 

最後に

 

 

仕方がないのと、そうしたほうがいいのとではまったく違います。
大切な人を亡くしたわけですから、悲しみを感じるのは仕方ありません。
しかし、悲しんだほうがいいとか、悲しむのは素晴らしいことだとまで言ってしまうのは、やはり行き過ぎだと思いますし、それがたとえ心理学的見地からの発言であったとしても、それが当てはまる特定の状況下の人間に対してのみなされるべきでしょう。

 

 

でないと、多くの人間が自分の都合のいいように解釈し、そういった世界が出来上がってしまいます。

 

 

悲しみなんてないほうがいいに決まっています。
本当は、誰もが悲しみたくないんです。

 

 

というわけで、悲しみをアンタッチャブルなものとして崇めてしまうのではなく、もうほんの少しでもいいので、「積極的に悲しみの解決を図ろうとする空気」が醸成されることを願っています。
もちろん、解決が可能かどうかは別問題ですが…

  

 

 

 

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