亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

1年が過ぎて

 

 

 

だいぶ過ぎてから気付いたのですが、ブログを書き始めてからいつの間にか1年が経過していました。
正直な話をすると、我ながらよく続いているなと思います。
ただ、記事数的には大したことないんですよね。
というのも、私の場合は毎日書いているわけでもありませんし、5月下旬から8月にかけては思いっきり中断もしましたから。

 

 

とはいっても、せっかく1年が経過したので、この1年を振り返ってみましょうか…

 

 

とまぁ、こんな話の流れになるのが普通だと思いますが、私の1年なんて実はどうでもいいことです。
そんなものより、重要なのはみなさんにとっての1年です。
ですので、もしよろしかったらみなさんの1年を振り返ってみてください。
いえ、少し違いますね…
この1年を振り返るというか、1年前のご自身を思い出してみてください。
そしてついでに、1年前のご自身と今のご自身を比べて、何が変わったのかをできるだけ客観的な目で考えてみてください。

(今年大切な人を亡くされた方にとっては苦痛でしょうから、もしそう感じるようであれば聞き流してください)

 

 

さて、では質問です。
何か変わった点を見つけることはできましたか?
もちろん、どんな些細なことでも構いません。

 

 

 

おそらく、変わった点はあったと思います。
いや、確実にあるはずです。

 

 

例えば年齢。
誰もがひとつ歳を重ねたことは間違いありません。
では、髪型や服装はどうでしょうか?
顔色や表情は?
会社や職場での立場は?
交友関係は?

 

いろいろと考えてみてください。

 

もちろん、それだけではありません。
心境についても変化があったでしょうから、その部分についてもぜひ考えてみてください。
というか、本当はこの部分だけでいいのですが…(笑)

 

 

なぜ私がこんなことをお願いするかというと、それは、時の流れというものの存在と、それが何かを変化させるという事実に改めて気付いてもらいたいからです。
そして、「変わらないものはない」ということを知ってもらいたいからです。

 

 

確かに、大切な人がいないという状況に変わりはありません。
しかし、そのことに対するみなさんの心情には、必ず何かしらの変化があったはずです。
それがたとえ「たった1ミリの変化」としか呼べないものだったとしても…

 

 

私もそうだったのですが、永遠にこの悲しみや苦しみが続くのかと感じている方はおそらくたくさんいらっしゃるはずです。
もしそれが本当なのだとしたら、今後の人生というものはあまりにも絶望的であまりにも酷なものですし、もしかすると生きる価値がないとまで言ってしまっていいのかもしれません。

 

でも、安心してください。
永久にこのままなのではないかと感じるその悲しみや苦しみでさえ、確実に変化していきます。
このことは、この1年間でのご自身の変化を認識することによって、きっとより理解しやすくなるはずです。

 

 

ただ、そのためには、ご自身に変化があったことをきちんと認める必要があります。
だからこそ、1年前のご自身と比較してもらったわけです。

 

 

改めて言いますが、1年経って何も変わっていないという人はいないと思います。
しかし、その変化を認識できるかどうか、認識しようとするかどうかはその人次第です。


たとえば、仮に「毎日泣くことがなくなった」という事実がそこにあったとしましょう。
これは普通に考えれば「変化」です。
ただ、これを変化として認識しようとしない人にとってみれば、これは変化ではありません。
バカげていると感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、これが主観というものですし、当の本人もおそらくいたって真剣だと思います。
先ほど「客観的な目で」とお願いしたのは、こういった状況を避けたかったためです。
つまり、確実に変化があったということを誰しもに認識してもらいたかったからです。
 

 

些細なことに感じるかもしれませんが、この「変化を認識できるかどうか」というのが個人的には非常に重要なことだと考えています。
なぜなら、この1年で少しでも変わったと感じられるなら、これから先も変化があるだろうことは容易に想像できるでしょうから。
対照的に、この1年で何も変わっていないと考えてしまった場合、そこに残るのは「1年経っても何も変わらなかった」という絶望でしかありません。
この場合は、これから先に変化があるだろうこともなかなか想像できないはずです。
当然ですよね。
自分が置かれている絶望的な状況に何も変化がなかった以上、この先もそれが続くと考えるのが自然ですから。

 

ちなみに、私の場合はこれでした。
悲しみや苦しみが少しずつ薄まっていたにもかかわらず、自分の中での変化に気付こうともしませんでしたし、それを感じようともしませんでした。
いつまでも死別直後と同じ状況にいると思い込んでいましたし、同じだけの悲しみや苦しみを背負っていかなければならないとさえ思い込んでいたんです。
つまり、絶望的な状況にいるという認識が自分の頭を支配していて、現実の自分について冷静に考えることが出来ていなかったんです。
たぶんそれが原因なのでしょう、大切な人のことを考える回数が減った自分を責めることも多かったですし、そんな自分が大嫌いでもありました。
それは言うなれば、悲しみが薄れていく「真の自分」を、それに気付いていないもう一人の自分がひたすらに責め立てていた状況とも言えます。
今思えば、純粋な悲しみや苦しみとは別のところで、これが私自身を苦しめていました。

 

 

改めて言うまでもありませんが、悲しみや苦しみというのは必ず薄まります。
たぶん、人間というのはそういう風にできているのでしょう。

 

 

たまに、「悲しみや苦しみの質が変化しただけで…」という言い方も耳にしますが、それもたぶん、薄まっているんだと思います。
ただ、どこかでそれを認めたくない自分がいて、「質が変化しただけで、悲しみの総量は何も変わっていない」と安心したいだけだと思います。
だって、その人にとってみれば「悲しみの総量=亡き人への愛情」でしょうから…
であれば、悲しみが薄まったことを認めたくないのも無理はありません。

 

しかし、幸か不幸か、悲しみはやっぱり薄れているんです。

 

 

安心してください。
誰もそんなことを責めはしません。
だって、変わらないものはないんですから。

「何も変わらないし変わるはずもない、そもそも変わりたくないし変わる必要もない…」
「悲しみや苦しみこそ亡き人への愛の証…」

こんなことを考えていた私でさえも変わりました。
正確に言うなら、こんなことを考えていたまさにあの瞬間も、私はおそらく変わり続けていたのでしょう。

 

 

誤解しないでほしいのですが、私はなにも「時薬」について述べようとしているわけではありません。
いつ効くかもわからないモヤっとした話ではなく、「1年で変化があったんだから、この先もたぶん変化するでしょ?」という「事実をもとにしたごくごく現実的な話」をしているだけです。
そしてその話の中で、ついでに悲しみや苦しみについて触れているだけです。

 

 

自ら絶望の底にとどまろうとする必要はありません。
自分の中に起きた変化に気付かずに絶望を深める必要もありません。
同様に、その変化を見て見ぬフリをする必要だってありません。

 

誰もが変わるものですし、悲しみや苦しみも当然のように薄まっていくものです。

 

ですから、それらが薄まってはいけないなどといった変な思い込みも必要ありませんし、薄まったことに対して言い訳や弁解じみた理由を探す必要もありません。
第一、悲しみや苦しみが薄まったとしても、それが大切な人への愛の陰りを意味していないことは大切な人が一番わかってくれています。

 

 

必要なのは、自分の中の変化を認めること。
そして、そこに希望を感じること。

 

 

今の自分に起きた変化を認識し「変化することが普通」であることを理解できれば、この先の人生にもやはり変化は期待できるはずです。
少なくとも絶望を感じる必要はないでしょう。
なんなら、人生が好転することさえ期待してもいいのかもしれません。
そういう意味で、たった1年ではありますが、この1年で変化があったという事実を認識することは非常に重要なことだと思います。

 

 

 

最後に

 

 

絶望的に感じているあなたの状況でさえいつか変わります。
少しでも早くそれに気付くことができれば、感じている絶望だって少しでも早く小さなものにできるでしょう。
変わっていく自分に目を伏せるのではなく、そんな自分に気付き、そんな自分を肯定していきましょう。
たぶんそれこそが本当の「自分」なのでしょうから。

 

 

 

 

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