亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

頂いたコメントへの回答

 

 

 

頂いたコメントに対して返事を書こうと思ったのですが、長くなりそうでしたので記事にしました。

 

頂いたコメントは以下のとおりです。

 

まずは、ブログ村へお帰りなさい。
こちらのブログに出会ったのは、2ヶ月ほど前ですが、今回初めて、コメントさせていただます。
私、妻を昨年夏に亡くした者で、いろいろな死別ブログをウロウロしました。
この夏には、いわゆる命日反応というのでしょうか、再度どん底に叩き落され、今ようやくまた、少し上向きになっていけそうな状態です。

こちらのブログの内容には、共感できるところ、ちょっと?と思えるところ、色々です。
でも、それは、環境や精神状態等にもよるので、しかたないと思っています。
まだどん底にいる人と、立ち直りつつある人とでは、同じ死別経験者であっても、共感できる内容には差があるでしょうから。
こちらのブログはどちらかというと、どん底から立ち直ろうとしたときに共感して読んでいける内容だと感じておりました。

ただ、今回の記事については、違和感を感じました。
以前の記事に「納得できる死なんて存在するのでしょうか?」とあり、そして今回「分類がしたかったわけではありません」とあるにもかかわらず、あえて線引きをされようとした意図がわかりかねます。
「納得せざるをえないか、そうでないか?」それはやはりその当事者ごとに異なることでしょうから。
仮に「寿命」で亡くなったとしても、「はい、そうですか」と納得せざるをえないのでしょうか。
納得できる人は、ごく少数派なのではないでしょうか。
故人が亡くなった状況に対して「あの時、ああしていれば」という考えを少しでも抱くようであれば、納得できていないでしょう。

以前の記事に「なぜ自分たちだけがこんな目に」と考えても起こった事実は何一つ変わらないというようにあります。
真にそう考えることができるのであれば、あらゆることを「運命」として受け入れられるということではないかと思います。
でも、私は「運命」というものを信じてはいません。
「運命」があると信じてしまったら、何をやっても変えようがないことを認めることになるからです。
結果的にそうなった状況を「運命」という言葉で片付けているだけだと思うからです。 ちょっと支離滅裂になってしまいました。
申し訳ございません。
 

 

 

 

まずは、コメントありがとうございました。
なにやら違和感を感じられたとのことですね。
それはそれでまったく構わないのですが、どうやら意味を取り違えてらっしゃる部分があるように感じたため、補足の意味も込めてお返事を差し上げることにしました。
なお、こういった誤解を招く原因は私の筆力のなさですので、その点については先にお詫びしておきます。

 

 

 

最初に断っておきますが、私のブログの記事は一貫していません。
ですから、記事によっては多少内容が異なる部分もあると思います。
ただ、それには理由があります。
それは、より多くの死別経験者に前を向くためのヒントを提供したいと考えているからです。
それだけでなく、死別してから立ち直るまでの私の体験や気持ちの変化などが織り込まれているというのもその理由です。
したがって、あなた様のおっしゃるように「立ち直り始めた方」に合うような内容もあるでしょうし、立ち直りとはほど遠い「後追いを考えているような方」に向けての内容もあります。
また、その時々に感じたことを書いている記事もありますので、時期によって多少内容がブレている可能性もあることでしょう。
さらに言うなら、世の中の出来事やみなさんの気持ちと同様に、私自身の気持ちはこれから先も変化します。
そう考えると、今回以降の記事もそういった影響を必ず受けるはずです。

 

 

というわけで、私の記事のすべてに整合性を求めようとするのであれば、それは少し違いますよと言っておきます。
なんてことはありません、気になった記事だけつまむという姿勢が当ブログの読み方としてベストです。

 

 

ちなみに、少しだけ視点を変えれば、「死別経験者に前を向いてもらうためのヒントを書こうとしている記事」であるという点は一貫しているハズです。
ですから、そういった視点でとらえて頂けると理解しやすいのかもしれません。

 

 

こんな点についてご理解頂いた上で、それでは今回の記事の意図を説明させていただこうと思います。

 

 

 

うまく伝わっていないところを先にお伝えしておきます。
死は基本的に納得できないものと書いたように、私は死を納得しなさいと言いたいわけではありません。
多くの死が納得いかないものであることはよく理解しているつもりです。
ただ、その中にだって多少の差があるのでは?というのが言いたいだけです。
つまり、ひとくちに死と言っても、どちらかというと納得できそうなものから、到底納得できないものまであるのでは?ということです。

 

 

おそらくこれで伝わったとは思いますが、念のためもう少し書いておきます。

 

 

例えば、寿命について考えてみましょうか。
人間が200歳まで生きられないことは誰もが理解しています。
ですから、「200歳まで生かしてあげられることができなかったから、自分としては納得がいかないんだ」などといった発言をする人は誰もいません。
これは言い換えるなら、200歳までのどこかで寿命を迎えることを誰もが「仕方ない」と考えているということです。
そうであるなら、平均寿命を大きく超えた時点での老衰による死などは、限りなく「納得できる死」に近いと言えるのではないでしょうか。
もちろん、それでもなお「到底納得がいかない」とおっしゃる方もいるかもしれません。
ただ、それは記事にも書いたとおり個人個人の受け止め方次第ですから、仕方のないことだと思います。

 

 

ついでですから、病気についても考えてみましょうか。
くどいようですが一応書いておきますと、病気による死も納得はできないものです。
それは、私自身の経験からもそう思います。
ただ、到底納得できないのかと尋ねられたら、どちらかというと納得できると私なら答えるでしょう。
というのも、ほとんどの人間が病気で亡くなる時代ですから、それを完全に防ぐことが不可能なことぐらい私でもわかりますし、そうである以上、それはどうしようもないもの、つまり、どちらかというと納得せざるを得ないほうに分類されるのだろうということもわかりますから。
それに、誰かから特定の病気をうつされたというケースでもなければ、基本的に病気というのは当人自身の問題に帰結するはずです。
(ここでは、先天性の病気やはっきりと遺伝由来とわかる病気など、当人がどうしようもなかったと思われるものは含めていません)
であるなら、やはりどちらかというと「納得せざるを得ないほうに近い死」と言えるのではないでしょうか。

 

 

とまぁこんな感じで、残りに関しても私なりに線を引いてみたわけです。
しかし、記事に書いたとおり分類がしたいわけではありません。
なのになぜ線を引いたのか?

 

 

それは、私が経験した大切な人の死と、今回の東名高速の事件による死があまりにもかけ離れているように感じたからです。
事件を知り、遺された人間が何を思うのだろうかと考えた時に、私にはその怒りと悲しみの種類や度合いについてまったく想像ができませんでした。

 

 

そして、こういった違いは果たしてどこから生まれてくるのだろうか?といったことを考えようとした結果、私の場合はこういった分類をして「私の中での落としどころ」を見つけたというだけの話です。
とにかく痛ましく腹立たしい事件であったため、もしかすると私自信もこのようなことを考えなければおさまりがつかなかったのかもしれません。

 

 

といった具合ですが、私が意図したことは伝わりましたでしょうか?
もっとも、結局は人の考え方や受け止め方の問題ですので、違和感を感じっぱなしでもまったく問題ないと思います(笑)

 

 

 

最後になりましたが、奥様のご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

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