亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

どうしようもないならまだしも…

 

 

 

ひとくちに死といっても、その原因にはいろいろあります。
寿命、病気、自然災害、交通事故、殺人事件、自死

 

 

こういったもののうち、納得できるものは果たしてどれぐらいあるのでしょうか?
先日の東名高速での理不尽な事故(事件?)を思うと、こんなことを考えずにはいられません。

 

 

 

 

大切な人を失うということは、基本的に納得のいかないことです。
それは、その原因がたとえどのようなものであったとしてもです。
しかし、そうは言っても、よくよく考えればそこには多かれ少なかれ程度の差があるはずです。
つまり、どちらかというと納得せざるを得ないものと、到底納得できないものといった具合の差です。

 

 

もちろん、個人個人の受け取り方の問題でもありますので、一概に判断できるものではありません。
それでも、客観的に考えることによって多少の線引きはできるように思います。

 

 

ということで、少し考えてみましょう。
では、冒頭で挙げた6つの原因であればどこで線が引けるでしょうか。

 

 

なお、先に断っておきますが、これはあくまでも私の感覚です。
したがって、意見が分かれる部分もあるとは思いますが、それは個人個人の受け取り方の問題として流して頂けると助かります。

 

 

さて、では線を引いてみましょうか。

 

 

まずは納得せざるを得ないものから…
これは、寿命、病気、自然災害、自死と、交通事故(亡くなった人間に責任がある場合)ですね。

 

 

そして、納得できないのがその残りになります。
つまり、殺人事件と交通事故(亡くなった人間に責任がない場合)です。

 

 

一応、なぜそう考えたか補足をしておきたいと思いますが、寿命や病気については特にありません。
これらはどうしようもありませんから。
同じ理由で、自然災害もです。
(ちなみに、ここでは警報が鳴らなかったとか避難指示が間違っていたなどのケースに関しては考えていません)

 

 

補足が必要なのは、自死と、亡くなった側に責任がある場合の交通事故ですね。
なかなか難しいのですが、自死に関して言うなら、最終的には自分で死を選んでいるという部分を考慮しています。
ですから、理由の如何はひとまず抜きにして、どこかで納得せざるを得ないのではと考えています。
もっとも、いじめなどを考えればわかるとおり、当人以外に圧倒的な原因があることも多いため、到底納得できないケースもあるはずです。
そういった場合は、やはり後者に分類すべき内容となるのでしょう。
ただ、少ないながらも自分で行動を決める余地があったということ、そして最後には自分でその道を選んだということを考えると、どちらかというと前者に分類すべきものかなと感じています。

 

 

次に、自責の交通事故の場合ですが、これはもう仕方ありません。
自分に原因があるのであればどこかで納得せざるを得ないでしょうし、そうすべきでもあるのでしょう。

 

 

 

では、後者について…
すなわち、納得できない原因についてです。

 

 

ここに殺人事件や他責の交通事故が含まれるのは当たり前ですね。
自分に非がないわけですし、それさえなければまだまだ元気に生きていたであろうことを考えると、到底納得はできないでしょう。
もちろん、殺人事件などの場合ですと自分に多少の非があるケースもあり得るのかもしれませんが、それでもやはり法を犯すのは論外ですから、納得する必要はまったくないはずです。

 

 

とまあ、私であればこんな感じで線を引きます。
ただ、これはあくまでも私の基準であり、仮の線でもあります。
当然、状況によってはこれらが入れ替わることだってあるでしょう。
いずれにしても、基準になるのは「自分にどれほどの責任があったのか」ということになると思います。

 

 

 

なお、今回は分類がしたかったわけではありません。
後者の場合、心のやり場は果たしてどこにあるのだろうかと気になっただけです。

 

 

なにぶん私にはそういった経験がありませんので、まったく想像もつきません。
どれほどの怒りがそこにあり、どれほどの悲しみがそこにあるのか。
そして、それが残された人間とその人のこれからの人生にどれほどの影響を与えるのか。

 

 

 マスコミ越しには、犯人に同じ目にあってほしいと言っている姿を目にしたり、極刑を望むといったコメントを聞くことがあります。
しかし、たとえそれが可能だったとしても大切な人は帰ってきません。
何をしても、そこに残るのは「ある特定の人に大切な人の人生を終わらせられたという事実」だけです。
世の中にこんな残酷なことがあっていいのでしょうか。
とてもではありませんが、私はその状況を乗り切れる自信がありません。
それだけでなく、その後の心のやり場についても皆目見当がつきません。

 

 

私なりに考えてみたのですが、もしかするとこれは責任の対象が明確だからなのかもしれません。
そしてその対象が、こともあろうに自分と同じ人間だからなのかもしれません。
そう考えると、何かを責める必要がなかったり、あったとしてもその対象がぼんやりとしているケース、すなわちここで書いた前者のパターンというのは、ある意味で不幸中の幸いと言えるのかもしれません。

 

 

悲しいニュースを見ながら、こんなことを感じていました。
とにもかくにも、お亡くなりになった方のご冥福をお祈りしたいと思います。

 

 

 

 

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