亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

決めつける必要性はどこにある

 

 

 

 

大切な人を失って悲しむのは当たり前ですし、それがごくごく自然な行為であることは私もよく理解しています。
しかし、その後の考え方や発言の中に、理解し難いものがあることも事実です。
その一つが「決めつけ」です。

 

 

みなさんは、大切な人を失った方がこういったことを口にしているのを聞いたことはありませんか?

 

「もう心の底から笑うことはない」
「もう二度と人を愛することはない」
「もう幸せを感じることはない」
「もう自分の人生は終わった」

 

 

どうですか?
おそらく似たような内容を耳にしたことがあると思います。
それどころか、こういったことをおっしゃった経験があるという方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
もちろん、私もそのうちの一人です。

 

 

では、このような発言をしていた人間は今も同じような考えを持っているのでしょうか?

 

 

これに関しては調査をしてみなければわかりません。
ですが、たぶん多くの方が否定することになるのではないでしょうか。
少なくとも私に関しては、180度考えが変わりました。
決して大げさではありません、本当に180度です。
つまり、正反対に考えるようになりました。
そして冒頭でもふれたとおり、今ではこういった考え方を理解に苦しむ考え方であるとさえ思っております。

 

 

とは言うものの、一時期とはいえ私自身もこういう考え方や発言をしていたわけですから、こういった行為の背景について少し考えてみたいと思います。

 

 

なぜ、人はこのようなことを考えてしまうのでしょうか?
なぜ、不透明であるはずの未来をわざわざ決めつけてしまうのでしょうか?
そしてなにより、なぜそれを「言葉にしてしまう」のでしょうか?

 

 

結論から書くなら、たぶんカッコつけたいんだと思います。
大切な人に対しても、他人に対しても。
上手い表現ではないかもしれませんし、かなりざっくりした表現だとは思いますが、私はそう感じています。
もちろん、賛成できないという方もいることでしょう。
ただ、私が言いたいことを一言で表現しようとするなら、やっぱりこのような結論になってしまいます。

 

 

とはいえ、これはあくまでも私自身のことを振り返ってみた上での結論です。
もちろん、当時からこんなことを意識していたかというとそんなはずもありません。
ただ、今になって当時を分析してみると、やはり、大切な人に対しても周囲の人に対してもカッコつけようとしていた自分がいたように思います。
正確に言うなら、「大切な人を失って苦しむ人間を演じようとしていた」とも言えるでしょう。
まぁいずれにしても、結局はカッコつけていたということです。

 

 

とはいっても、大切な人を失って苦しんでいたこと自体は紛れもない事実です。
ですから、何もないところから演じていたというわけでは断じてありません。
しかし、こと対外的な場面になると、その「大切な人を失って苦しむ自分という姿」を決定的なものにするかのごとく、ああいった発言を繰り返していた気がします。

 

 

この「カッコつけ」ですが、個人的にはそれぞれが以下の気持ちに対応しているように感じています。

 

大切な人に対するカッコつけ → 「大切な人への忠誠を誓いたいという気持ち」
他人に対するカッコつけ   → 「周囲の人間に同情してもらいたい気持ち」

 

 

一つ目ですが、これは「一途であること」を素晴らしいとする文化だからこそ芽生える感情であり、愛し続けることこそ「愛情の証明」と考える人間が多いからこそ生まれるものでもあります。
ここに、大切な人を助けられなかったという申し訳なさも加わるので、「忠誠を誓いたい」というその気持ちがより強固なものになることはたぶん理解してもらえると思います。

 

 

そしてそれが、冒頭の発言につながるわけです。
この場合、これらの発言は「大切な人のためにも自分は一人で生きていかなければならない宣言」という意味合いを持ちます。
また、宣言をすることにより、さらに自分を戒めようとしていると捉えることもできるでしょう。

 

 

次に二つ目ですが、これはもうそのままです。
大切な人を失ってあまりにもつらく、他人に同情してもらいたいということです。
そしてそのような感情によってなされる発言ですから、この発言は「誰かに構ってほしい宣言」という意味合いを持っています。

 

ちなみに、この感情から生まれた発言であった場合は多少面倒です。
というのも、否定されても同意されても終わらないからです。
せっかくですので、試しに一つ取り上げてみましょう。

 

とりあえず、冒頭にあった発言「もう自分の人生は終わった」で考えてみましょうか。

 

  • 「そんなことないよ」と否定された場合


「いや、大切な人が亡くなった以上、生きている意味はないし、なんの楽しみもない。だから、やっぱり自分の人生は終わったに等しい…」
こんな感じで続きます。
最悪の場合、「あなたはいいよね、大切な人がいて…」とか「あなたにはこの気持ちがわからないに決まってる…」などと続いていきます。


 

  • 「そのとおりだね」と肯定された場合


「それにしても、世の中にこんな理不尽なことがあっていいのか。いったいこれからどうしろと言うんだろう。いっそ人生を終わらせてしまったほうがいいのかもしれない…」などと続き、最悪の場合はやはり「あなたにはこの気持ちがわからないだろう」などと続くはめになります。

 

 

おわかりのとおり、そもそもが同情を引くためになされた発言ですから、結論などは必要ありません。
本人が同情してもらえたと感じるまで会話が続くことになります。

 

 

 

 最後に

 

 

とまぁこんな感じで、「決めつけ」の背景には「カッコつけようとする姿勢」が存在するということを書いてきたわけですが、
最後に、「決めつけても全然カッコよくない」ということを声を大にして言っておきます。

 

 

それはそうでしょう。
だって、この先のことなんて誰にもわからないわけですから。
そうである以上、「今はこう思っているけど、この先どうなるかは自分にもわからない」と言っておけばいいだけです。

 

 

なにより、決めつけた発言をしてしまうと、その背景にある心境が透けて見えるばかりでなく、いざという時にその発言とは異なる選択がしづらくなります。

 

 

たとえば、「自分はもう二度と人を愛さない」と発言していた人間が「気になる人」に出会ってしまったらどうなるでしょうか?

 

気軽に前言を撤回できるような人間であれば大事には至りませんが、そうでない場合、人生における大切な出会いを逃してしまう結果にもなりかねません。
それは、人生の選択肢をわざわざ「自分で」狭めていることに他ならず、誰のためにもならないことでもあります。

 

そういったことまで考えると、自分の人生のためには出来る限り柔軟な姿勢でいるべきでしょう。

 

 

とはいっても、さほど心配する必要はありません。
時の経過とともに自然と心境に変化が現れると思います。
ただ、一方で「思考は現実化する」という話もありますから、早めに「決めつけ」から脱却するのに越したことはないでしょう。

 

 

 

 

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