亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

人の葬儀に思うこと

 

 

ひと月ほど前に友人の親戚が亡くなったのですが、今回はその際の葬儀のことについて書きます。

ただ、人づてに聞いた話ですので、その点は予めご理解ください。

 

 

 

 

その時の葬儀ですが、故人が家族葬を希望していたとの理由から親族のみで執り行われたそうです。
最近は家族葬を希望される方がますます増えていますので、この点についてはまったく不思議ではありません。
しかし、地方にお住まいだったせいもあるのか、その地域の一般的な葬儀の仕方や慣習とは異なっていたそうです。
どういうことかというと、その地域では近所に葬儀のお手伝いをしてもらうことが一般的でした。
ですから、誰かに不幸があった場合はその地域全体で葬儀を行うのが普通だったわけです。

さて、そんな地域で家族葬を選択したわけですから、外野からの声が出てくるのは当然なのかもしれません。
結果として、「どうして我々を呼んでくれなかったんだ」という問い合わせが、ご主人を亡くされた奥様宛てに多く寄せられたそうです。
もちろん、喪主でもある奥様は「故人の希望でしたので…」という旨をお伝えしたそうなのですが、それでもやはりいろいろと言われてしまったみたいです。


ここまでが友人から聞いた話の大筋です。
どうでしょう?
みなさんは何か感じましたか?

私は、正直言って気持ち悪さしか残りませんでした。
というわけで、私が気持ち悪く感じた部分に説明していきましょう。

とその前に、繰り返しになってしまいますがこれは人づてに聞いた話です。
したがって、その場の「雰囲気」や「どういう言われ方をしたのか」といった詳細についてはわかりません。
また、近所の住民の人間性などについても知りませんので、できるだけ公平に考える必要があるはずです。
ただし、そういったことをすべて考慮したとしても、やはり気持ち悪さしか残らなかったため、書くことにしたというわけです。
そういうことですから、よく状況も知らないくせにといった批判は勘弁してください。

とはいっても、私が気になるのは2点だけです。
ひとつは「故人が家族葬を希望しているということ」、そしてもうひとつは「文句を言う相手」です。

では考えてみたいと思います。
と言いつつ、実は考えるまでもありません。
ハッキリ言いますが、故人が希望しているのであれば外野はノーチャンスです。
何も意見を言う資格はありませんし、意見を言うべきでもないでしょう。
それは、たとえ家族であっても同じことです。
誰であっても、故人の希望に「難癖」をつけるべきではありません。
もちろん、金銭的に無理なことや物理的に不可能なことであった場合は仕方ありません。
しかし、故人の希望が現実的なものであって、なおかつ実現可能であった場合には、全員が黙って従うべきです。

というのも、いくら遺された人間が執り行うとはいえそもそもは故人を送るための儀式なわけです。
であれば、故人の遺志は誰よりも尊重されるべきでしょう。
少なくとも私はそう思います。
それに、故人の遺志を尊重しなければ、あとになって「ああすべきだった」と思い悩み苦しむ人間が出てきます。
性質上こういった後悔は解消されることがありませんので、このようなことはなんとしても避けるべきでしょう。
第一、そうやって苦しむのは、自分の意見を言った人間ではなくこれからもずっと故人のそばにいる「故人の遺志を知る人間」ですから。

個人的には、「人生に一度しかなく、もっともその人自身の意見が反映されるべきもの」、それが葬儀だと思っています。
そしてそこに故人の希望がある以上、それをないがしろにすることは人としてあり得ません。

ちなみに、本来であれば最初の問い合わせすら疑問に感じるところです。
ただし、そういった慣習が根付いている地域だったことを考えると仕方がないのかもしれません。
しかし、故人の希望だということを知ったにもかかわらず、それでも「ああでもないこうでもない」と言っている人間は、まったくもって理解ができません。

以上が、最初の気になる点です。


次に、「文句を言う相手」についてですが、この人たちは「自分が誰に対して文句を言っているのか」ということを理解しているのでしょうか?
大切な人を亡くして誰よりも傷ついている人間に向かって、「なぜ声をかけてくれなかったのか」「なぜ葬儀に呼んでくれなかったのか」などと、よくもまあこんな「くだらないこと」が言えたものです。
これには正直なところかなり引きます。
いえ、それどころじゃありません。
「大丈夫ですか?」と、頭をコンコンとしてあげたいぐらいです。

そういう人には、試しに次のようなことを考えてもらいたいと思います。

  • 今さらそれを言って何になるのか?
  • 傷ついた人をさらに苦しめてしまうと思わないのか?
  • そもそも、「遺族がよく考えた末に出した答えがこの形式なのだろう」となぜ思えないのか?

 

想像力さえあればこんなものはすぐに理解できそうですが、果たしてこの想像力を求めてはいけないのでしょうか?

百歩譲って、自分が必要とされないさびしさや地域の慣習から外れていることに対する違和感、故人へ挨拶をしたかったという想いなどが理解できるとしましょう。
しかし、それ以上に遺族の気持ちを考えなければならない場面、それがまさにこの時です。
しかも、喪主なんて遺族のど真ん中であり、故人と最も関係性が深い人間と言っても過言ではありません。
ですから、最も傷ついている可能性も高く、そういった点を考えてもやはり外野は黙っておくべきでしょう。


こんな感じで書いてきましたが、途中で断ったように、私も物事の側面しか見られていない可能性があります。
なにせ、人づての話ですから…
とはいえ、やはり疑問を感じ、気持ち悪く感じてしまったため書いた次第です。

 

 


せっかくですから、どうすればこういった状況を避けられるのかを最後に考えてみましょう。

まず、相手を思い遣る気持ちがいつも以上に必要です。
極端な話、この気持ちさえ十分にあれば、おそらくそれだけでく上のような状態は避けられるでしょう。
しかし、それもなかなか難しいので、次に何が必要かということを考えてみると、やはり「情報」なのではないでしょうか。
つまり、葬儀が多様化しているという「情報」です。
というのも、そういった情報を把握してさえいれば、誰かがそれを選択したとしてもその真意や意図が理解できるでしょうし、なによりその形式に違和感を感じることがないでしょうから。
もちろん、古くから根付いている慣習に対抗しようとすると、それほど簡単な話ではないのかもしれません。
ですが、今回の場合であっても、多くの人が家族葬の存在を知っていれば少しは避けられたような気がします。
そう考えると、地方であったことも悪い方向に作用したのかもしれません。


いずれにしても、これからは新しい葬儀形式もますます出てくるはずです。
それがどういうものであるにせよ、そっと見守ることができる人間でありたいものです。

 

 

 

 

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