亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

自責の念について

 

私は、大切な人を助けられなかったことを今でも少し後悔しています。
そんな具合ですから、当時は自責の念でいっぱいでした。

ただ、誰も悪くないということに気付いたせいか、後悔の気持ちはだいぶ薄れたように思います。

ここまでは先日触れた内容ですが、自責の念についてもうひとつ私が気になっていることを今回は書いてみます。



では、私の例で考えてみましょうか。

仮に、大切な人の病気の兆候に世界中の誰よりも早く私が気付き、手術などを経て事なきを得たとしましょう。
その場合、私が当時感じたような自責の念は存在しないことになります。
つまり、私が自分を責めることはありません。

では、これですべて解決したと言えるのでしょうか?
もう二度と私は自分を責めることがないのでしょうか?

いいえ、そんなことはありません。
その数年後、もしくは数十年後、必ず同じことが起きているはずです。
大切な人が私より先に亡くなる限り、それは間違いありません。

大切な人が病気によって亡くなろうが、事故や災害によって亡くなろうが、なにかの事件によって亡くなろうが、きっと私は自分を責めるはずです。

「あの時、なぜあれをしなかったのか」と…

こう考えるとおわかり頂けますよね。
結局、何が起きても自分を責めることになるんです。


そして、気付きました。
何が原因だったとしても自分を責め、いつ亡くなったとしてもやはり自分を責めるのであれば、もはや問題はそこにないのでは?ということに。
さらに言うなら、それはつまり「自分を責める必要がない」ということを意味しているのでは?ということにも。


もしかすると、私は自分が何でもできると思ってたのかもしれません。
「大切な人を永遠に生かすことさえできる」って…

でも、そんなことができるはずもありません。
しかし、小学生でもわかるこんな簡単なことが、大切な人のこととなるとなぜか理解できなくなっていました。
だからこそ、自分を責めてしまったのでしょう。

表現が適切かはわかりませんが、大切な人を助けられなかった自分を責めるという行為は、よくよく考えると立場をわきまえていない行為なのかもしれません。
なぜなら、誰にも「人の命をコントロールする力」はありませんし、「人に永遠の命を授ける力」もありませんから。
そんな人物が存在するとしたら、それはきっと神様だけです。
そう考えると、そもそもそんな力も持っていない私たちは、人を死なせてしまったなどと後悔する資格さえ持っていないのかもしれません。


 



「大切な人が亡くなったのはあなたのせいではありません」

大切な人の命を助けたいと思うのは当然のことですし、誰もが望むことでもあります。
しかし、残念なことに人はいつか必ず亡くなります。
それは、何度助けてもどうせいつかはその瞬間がやってくるということです。

確かに、もしその時に助けられていたらもう少し長い間一緒にいられたことでしょう。
ただ、人に寿命がある以上、それを言ってもきりがないのは明らかです。

もちろん、命をあきらめろと言っているわけではありません。
言いたいのは、助けるために精一杯のことをして、それでも亡くなってしまった場合にはあきらめていいのでは?ということです。

ちなみに、ここで言う精一杯とは、なにも莫大な手術費用を工面したり、稀代の名医に手術を依頼したりといったことではありません。
その時にあなたがとれる行動、それがあなたにできる精一杯です。
ですから、その時にどういった行動をとったとしてもそれはあなたの精一杯であり、その後の結果について自分を責める必要などまったくありません。

最後になりますが、自分を責めても終わりはありません。
いたずらに自分を苦しめるだけです。
私自身、自分の経験を通じてそのことをよく理解できました。
ですから、できれば他の方々にはそういった思いをしてほしくありません。

大切な人を亡くしてただでさえ傷ついているのが自分自身です。
そんな自分を少しだけ大切にしましょう。
そして、そんな自分を少しだけ許してあげましょう。 

みなさんが少しでも穏やかな気持ちになれることを願っています。

 

 

 

 

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