亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

些細なことですが…

 

 

 

 

「立ち直るために」「前向きに生きるために」なんてことを書いていると、「悲しみと向き合うことも重要なのでは?」といったご意見をよく頂きます。

 

 

確かにそうですね、それはもっともなご意見だと思いますし、反対するつもりはありません。
しかし、私がそれを声高に唱えることは決してありません。
なぜなら、誰もがすでに悲しみと向き合っているはずであり、そのことにわざわざ触れる必要はないと私は考えているからです。

 

 

それに、これはあくまでも個人的な印象ですが、「悲しみと向き合うことが大切だ」というこの言葉は、単に立ち直ろうとしないことを正当化するために使われているようにも感じるからです。
正確に言うなら、「悲しむことを奨励する」という意味合いで使われたり受け取られたりしてしまっているということです。

 

 

私は、悲しむことは自然なことであり、仕方のないことだと考えています。
当然、無理に悲しみを抑え込む必要もないでしょう。
ただ、悲しむことを奨励するつもりは一切ありませんし、悲しみなんて小さければ小さいほどいいと考えています。

 

 

「悲しみを認めること」と「悲しみを奨励すること」はまったく違います。

 

 

「泣いていい」と「泣いたほうがいい」に大きな違いがあるように、「悲しんでいい」と「悲しんだほうがいい」にも大きな違いがあります。

 

 

なにより、ほとんどの人間がすでに悲しみで苦しんでいるわけです。
それを考えると、その状況でなお「悲しんだほうがいい」と言うのは、さすがに違和感があります。

 

 

確かに、些細なことかもしれません。
しかし、なぜこんな細かいことを気にするかというと、その言葉の受け手のことを考えているからです。

 

 

特に、前向きに生きることにまだ抵抗がある人間にとって、「悲しみと向き合うことが大切だ」という言葉は、「都合のいい気休め」や「拠り所」となってしまう可能性があります。
最悪の場合、いつまでも悲しみを見つめ続けるという結果にもなりかねません。
当然そうなれば、前を向くどころの話ではなくなってしまうでしょう。

 

 

立ち直るには、やはり「立ち直りたいという気持ち」が本人のどこかに必要です。
そして、多少なりとも努力することや無理をすることも必要です。
そのためのわずかな芽が、このような言葉によって摘まれてしまうこと、それを私は心配しています。

 

 

最後にもう一度言っておきますが、悲しみなんて小さければ小さいほうがいいに決まってます。
ですから、悲しみの奨励に出会った時は、少しだけこの話を思い返してみてください。

 

 

 

 

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