亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

きっと誰も悪くない

 

 

 

 

大切な人を亡くしてからしばらくの間、私はその死を誰かのせいにしてきた記憶があります。
時に神様であったり、時に医者であったり…

 

 

しかし、そのほとんどは自分でした。

 

 

当時は、今考えても不思議なほど「大切な人が亡くなったことを自分のせいだ」と考えていました。
それだけではありません。
それが正解なのだろうとも感じていました。
そのため、当時の自責の念はかなり強く、今でもその影響が少し残っています。

 

 

ただ、わずかに残る自責の念も、当時と比べるとだいぶニュアンスが変わったように思います。
というのも、私は現在、「当時は感じることがなかった気持ち」を感じているからです。

 

 

それが「きっと誰も悪くない」という気持ちです。

 

 

私は大切な人を病気で亡くしたのですが、振り返ってみると確かに兆候のようなものはありました。
そういう意味では、もし私がもう少し早くその兆候に気付いていれば、その後の状況が変わっていた可能性はあります。
ただ、残念なことに私がそれに気付くことはありませんでした。

 

 

となると、やっぱり私が悪かったのでしょうか?

 

 

正直、こればかりはなんとも言えません。
もしかしたら私のせいかもしれませんし、もしかしたらまったくそうではないのかもしれません。
ひとつだけ言えるのは、私には一切の悪気がなかったということです。
 病気の兆候を見逃すつもりなんてサラサラありませんでしたし、それによって大切な人を死に追いやるつもりもありませんでした。
ただ単に気付かなかったんです。

 

 

私の場合はこんな感じでしたが、たぶんみなさんもそうなんだと思います。
大切な人を亡くされた経緯こそ人それぞれだと思いますが、そこに悪気なんかあるはずもないでしょう。

 

 

そしてこういったことを考えるにつれ、私は思うようになりました。
「きっと誰も悪くない」と…

 

 

こういった気持ちが芽生えたおかげで、私は自分を責めることがだいぶ少なくなりました。
とはいっても、何も後悔していないというわけではありません。
今でも後悔していることはあります。
ただ、たとえ後悔はしていても、それをもって自分を責めることは少なくなりました。

 

 

最後に

 

 

理不尽としか思えない「死」ですから、自分を含めた「どこかの誰か」に責任を負わせたくなる気持ちはよくわかります。
しかし、特殊な事例を除けば、ほとんどのケースにおいて死は誰のせいでもないはずです。
それに、誰もが必ず死ぬ運命にある以上、誰かが亡くなるたびに「これはいったい誰のせいなんだ?」といったことを考えるのはあまりにも無意味なことだと思います。

 

 

結局、自分を責めても答えは出ません。
もちろん、いいことだって何ひとつ起きません。


自分を責めるにしても責めないにしても、このことは理解しておいたほうがいいと思います。 

 

 

 

 

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