果たして、人を前へ向かわせるために役立つものなのか、それともそこから遠ざけるものなのか、はたまた、そのどちらでもないのか…
最近、死別ブログを読むことの効用について考えることがあります。
というのも、大切な人を亡くされた死別経験者の数と比較すると、死別ブログを読んでいる人間の数が圧倒的に少ないように思えるからです。
言い方を換えるなら、たとえ死別経験者であっても、ほとんどの方は死別ブログなど読んでいないという言い方もできるでしょう。
では、理由は何でしょうか?
そういったものを人々が必要としないのでしょうか、それとも役に立たないのでしょうか…
個人的には、両方とも正解な気がします。
とはいっても、これだけではないことも確かです。
なぜなら、死別経験者にはパソコンやスマホを利用しない高齢者が多く、「そもそも死別ブログの存在を知らない」というのも大きな理由の一つと言えるでしょうから。
このように、理由はいくつか考えられるわけですが、その中で私が特に気になっているのは「もしかしたら役に立たないからなのでは?」という部分です。
ちなみに、「死別ブログを読んだほうがいい」といった内容の話やアドバイスをみなさんは聞いたことがありますか?
私はありません。
気になったので検索もしてみましたが、私が調べた限りではそういった情報も見当たりませんでした。
というわけで、ここからはあくまでも個人的な考えですが、もし死別ブログを読むことに効用があるのであれば、もっともっとそれが推奨されていてもおかしくないのではないでしょうか。
にもかかわらずそうなっていないのは、それ相応の理由があるように思えてなりません。
「書き手がどんな内容を書くかわからないため、効用が担保できない」といった問題点は当然あるでしょう。
これは一般人が書いている以上、仕方がないことでもあります。
だからと言って、死別ブログは今までにも多数存在していたはずですから、そのすべてが得体のしれないブログというわけでもなかったはずです。
にもかかわらず、「死別ブログを読むことには効用がある」といった話がとんと聞こえてこないのは、やはり不思議なことです。
そしてそれはまた、死別ブログを読むこと自体に大した効用がないことを物語っているようにも感じます。
私なりに結論付けるなら、書き手にとっては大いに意味がある死別ブログも、読み手にとっては微妙なものと言えるのかもしれません。
そして、死別後の不安定な時期であるからこそ、読み手には「不安定な自分を意識しつつ、自分なりに取捨選択しながら読むという姿勢」が求められるのでしょう。
最後になりましたが、ここでいう「効用」とは、「前を向くための効用」という意味です。
したがって、この枠を取り払うのであれば、多少なりとも話は変わってくるはずです。
ただ、この枠を取り払うことにはあまりにも意味がないので、「前を向くための効用」という意味合いで使用しております。