大切な人を亡くすと、何もかもやる気がなくなってしまうものです。
少なくとも当時の私はそうでした。
それだけではありません。
やる気が出ないことを理由に、何もやろうともしませんでした。
「偉くなっても仕方ない、お金を稼いでも仕方ない。だって、何をしても大切な人は戻ってこないから…」
こんな具合です。
何もやりたくないわけですから、「できない」理由を進んで探したりもしてしまいます。
言ってみれば、最初から「物事の粗探し」をするようなものです。
そして「粗」を見つけては、やらない自分やできない自分を正当化するわけです。
そもそも、何をしても大切な人は帰ってきません。
ところが、人によっては「大切な人が戻ってくること」をいつまでも望み続けます。
もちろん、この行為自体はおかしいとは思いません。
ただ、それだけを望んでいると、結果的に世の中すべてのことに「粗」が存在することになります。
言うまでもありませんが、それは「大切な人が戻ってこない」という「粗」です。
試しに、「〇〇をしても大切な人は帰ってこない」の〇〇に、適当な内容を入れてみてください。
たとえどんな内容であっても成り立つことがすぐにわかると思います。
こんな具合に、そういう人間にとってみればすべてのことに「粗」が存在しているというわけです。
こういったことを考えると、何をするにしても「強烈な粗」しか感じられないわけですから、自暴自棄になる気持ちもわかりますし、人生を放棄したくなる気持ちもわかります。
前を向こうとする気持ちが生まれないことも当然と言えるのかもしれません。
しかし、「いつまでもそう考えていても永久に何も変わらない」ということだって簡単に想像できるはずです。
それになにより、上の考え方は悪循環を生みます。
「やらないから何も変わらないし何もできない」 → 「何も変わらないし何もできないからますますやらない」
これでは何も変わらないばかりか、ひたすらに「大切な人がいない現実」を突き付けられ続ける結果となるだけです。
当然、ご自身も苦しみ続けることになるでしょう。
では、どうすればいいのでしょうか?
私なりに答えを用意するのであれば、次のようになります。
「今の自分にできることを探して、それを実行する」
大切な人を亡くしてどうしても悲観的に考えてしまう状況でしょうから、「できない」「やりたくない」といった姿勢になることは無理もありません。
それに、死別によって状況が一変していますから、「できないこと」や「やりたくないこと」は実は思っている以上に増えているはずです。
それでも、今の自分にできることを探してみてください。
そして、少しでも実行してみてください。
そうすれば、自分自身の存在に少なからず意味があるということに気付けるでしょうし、何かをすることがそのうち何かしらの変化をもたらしてくれるはずです。
大切なのは、「できないこと」を探すのではなく「できること」を探す姿勢でいることだと思います。
否定するばかりでは何も変わりませんし、何もしなければ何も変わりません。
それだけはおそらく間違ないでしょうから。
※
中には、こういった考え方自体が「できない」という方もいらっしゃると思います。
しかし、本当にそうでしょうか?
改めてご自身に問いかけてみてください。
そう思い込もうとしているだけではありませんか?