亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

「~に助けられた」という言葉

 

 

 

「~に助けられた」という言葉をいろいろなところでよく聞きます。
私もそういったコメントを頂くことがありますし、以前参加した遺族会などでも多くの方が似たような発言をしていました。

 

 

ただ、私はたまに疑問に思います。
いったいこの方々は本当に助けられたのだろうかと…

 

 

というのも、この言葉を使っている方の中には、まだまだ悲嘆の真っ只中にいらっしゃる方が多いように感じるからです。

 

 

特に私の場合、「悲嘆から抜け出し、前を向くことができてはじめて助かったと言えるのでは?」と考えているため、そうでない方々がこの言葉を選択することに多少なりとも違和感を感じてしまうというわけです。

 

 

もちろん、悲しみが多少和らぐことをもって助けられたと感じる方もいらっしゃるわけですし、そもそも本人が助けられたと感じているわけですから、誰かがとやかく言うような話でないこともよくわかっています。

 

 

それでも、やはり私には少しひっかかるのです。

 

 

ですから、「この助けられたという感覚がどこか大事なところでマイナスに働いているんじゃないか…?」「このホッとした感じがもしかしたら何か問題を生んでいるんじゃないか…?」といったことを考えてしまうというわけです。

 

 

そうでなければ、「助けられた」と言いながらなお苦しみ続けている方がいらっしゃる状況に説明がつかないような気がします。

 

 

自分の言葉が自分に影響するというのは有名な話です。
したがって、「助けられた」というこの言葉にも、自分に対する何かしらの影響力があるのは間違いのないことでしょう。
当然、言葉の意味からすればプラスの影響力となるわけですが、果たして実際のところはどうなのでしょうか?

 

 

とはいっても私では答えが出ませんので、この疑問はとりあえずここまでにしておきます。
みなさんも、気が向いたら自分なりに検証してみてはいかがでしょうか?

 

 

個人的には、「助けられた」という言葉よりも「支えられた」という表現のほうが本人のその後にとってプラスが多いような気がします。
もちろん、あくまでも私の肌感覚に過ぎませんが…

 

 

 

 

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