亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

「死」を使った言葉

 

望むにしろ望まないにしろ、日常生活の中では「死」を使った表現に結構出くわすものです。

たとえば、「死ねばいいのに」「死んでほしい」といったあまり好ましくないものから、「死ぬほど疲れた」「死ぬほど笑った」などの強調表現、さらには「死ぬまでには月に行きたい」といったように単純に期限を示すものまで。
もちろん、これだけではありません。
「死んだように眠る」などといった比喩表現などもありますし、私が思いつかないだけで他にもまだまだあるでしょう。

といったわけで、「死」を使った言葉について思うところを少しだけ書いてみます。


当然のことなのかもしれませんが、死別を経験した人間はこういった言葉に敏感になる傾向があるように感じます。
私も一時期はそうでした。
傷口に触れられるような気がするとでも言えばいいのでしょうか、そんな感覚だったことを覚えています。

とはいっても、それが嫌だったかというとそうでもありませんでした。
単に敏感になっていただけなのかもしれません。

しかし、みなさんの中には、「死」という言葉が嫌いな方や「死」という言葉に直面した際とっさに固まってしまうような方のほうがきっと多いのではないでしょうか。

たぶん、それが普通なんだと思います。

人によっては大切な人の死を思い出してしまうこともあるでしょうし、「死」が軽んじられているような気がして不快に感じる方だっているでしょうから。

ただ一方で、私の頭にときおり裏腹な思いが浮かんでくることもまた事実です。

それは、死がもっと一般的なものとして認識されていれば、これほどまでに悲しむ必要はないのではないかという思いです。
つまり、身近に当たり前のように「死」が存在してさえいれば、「死」に際して感じる悲しみ自体が減るのではないかということです。

「死」は人生で一回きりですから、なかなか身近に感じることは難しいものです。また、基本的に忌み嫌われる存在ですので敬遠されるのも自然なことです。でも、こういったことがかえって悲しみを大きくしているような気がします。

そう考えると、「死」を使った表現も何かしらの役に立つのではないか…
こんなことをぼんやりと考えてしまいます。

考えるだけ無駄なのかもしれませんし、多くの方に理解されない部分だと思います。
ただ、悲しみの総量を少しでも減らしたいと考えると、どうしてもこんなところに思いが至ってしまいます。

もっとも、現代の日本を気持ちよく生きていくためには、あまり使わないほうがいい表現であることに間違いはありません。

なかなか難しいものですね。

 

 

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