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亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

心をかき乱すもの

 

死別してからというもの、私は病院というものを避けていました。

その理由は、臨終の際に医者とそこにいた研修生たちが笑ったような気がして頭にきていたからでもなく、手術ができないまま亡くなってしまったことを私自身が気にしていたからでもありません。
ただ単に、いろいろなことを思い出してしまうからです。

正確に言うなら、当時と同じようなシチュエーションを目にしたり耳にすることが耐えられなかったと言えばいいのかもしれません。

ですから、たとえ新聞の記事やテレビ、それに映画などであっても、似たような内容や似たようなシーンからは必ず目を背けていましたし、事前にそういった内容だとわかっているような場合は、目を通すことも観ることもありませんでした。白衣が映るだけで受け付けなかったぐらいですから、よほど敬遠していたのでしょう。

なお、現在はこういったことで心をかき乱されることはありません。
したがって、普通なら一件落着という話になるのでしょう。

しかし、当時それほどまでに避けていたこのような強烈な刺激、つまり心をかき乱すものを、現在の私は少なからず求めているように思います。
この感覚は何なのだろうと自分自身でも不思議に感じますが、たぶん大切な人の存在を改めて感じたいんだろうと理解することにしています。
たとえ死別間際のつらい時期とはいえ、大切な人がいたその時間についての記憶が鮮明に呼び覚まされることを願っているのでしょう。

当時は懸命に避けようとしていたものを、今になって心のどこかで求めているというのはなんとも皮肉なものです。
それもこれも、すべては薄れていく記憶が原因なのでしょう。
そして、心がかき乱されることを求めるのは、それに対する私のささやかな抵抗なのかもしれません。

もちろん、忘れることが重要なのはしっかりと理解しているつもりです。
ただ、それは「死」が私たちにとってつらいものであるからであって、もし「死」をつらいものだと考えずに済むような状況であれば、おそらく話は一変するはずです。

ざっくり言うなら、自分の中できちんと整理がついてさえいれば、「いつまでも忘れようとしないことや、忘れたくないと思うことに何の問題もないのではないか」ということです。

もっとも、もし「死」がつらいものでなければ、これほどまでに故人に執着することもないかもしれませんので、にわとりとたまごの関係になってしまう気もしますが…

いずれにしても、記憶は失ってからではどうにもなりません。

本来であれば、大切な人の死をきちんと理解した上で、なおかつ何から何までしっかりと覚えているような「すべてをわきまえた自分」でありたかったのですが、記憶が薄れている以上、もはや叶わぬ夢です。

 

 

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