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亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

自殺について思うこと

 

今回は、自殺について少しだけ思うところを書いてみます。
もしかすると「自死」と表現したほうがいいのかもしれませんが、自殺というほうが私自身ピンときますので、この記事では自殺という表現を使います。
なお、超個人的な見解のため、その点はご理解のほどよろしくお願い致します。

 

 

 

悲しいことに、ときおり自殺のニュースを見かけます。
過労による自殺であったり、学校でのイジメを原因とする自殺であったり、著名人の自殺であったり…
とはいっても、ニュースとして取り上げられるのはごくごく一部であり、ニュース性に乏しいものに関しては報道されることがありません。

では、実際にどれだけの人間が自殺によって自らの命を絶っているのでしょうか?

これは毎年約3万人と言われています。
もっとも、一説には10万人以上という見解もあるようですので実際のところはよくわかりません。いずれにしても言えるのは、ニュースにならないところで多くの人間が自らの命を絶ち、そしてこの世を去っているということです。

ちなみに、こんな私も後追いをしようとした経験があります。
過去の記事でも多少触れているため、ご存知の方もいらっしゃることでしょう。
つまり、私も自ら命を絶とうとしたわけであり、もしあの時想定通りに事が運んでいれば今頃こんな記事を書いていることはなかったはずです。

かなり昔の話ではありますが、自分のことということもあり、やはりある程度は当時の心境を覚えています。
「大切に人に会いたい」「死ねばきっと会える」「いつまでも続くかのようなこの苦しみや絶望から逃れたい」、こんなことばかり考えていました。そしてその気持ちが募りに募り、ついには死のうと決心するに至るわけです。しかし、あと一歩のところで急に芽を出してきた自分の臆病さに負けて、実際には予定通りとなることはありませんでした。

確かに、今となってはこの時死ななくて良かったと思います。
ただし、私が未だに強く覚えているのは、「あの時自分は間違いなく死を望んでいた」ということです。

それは、当時姉に向かって言った次の言葉からもわかります。
「死ぬことが私にとって幸せなんだから気にしないでくれ。なにより、死んだあと私は向こうの世界で大喜びしているはず。そして、本人が喜んでいるんだから残された人間だって悲しむ必要はない。それでももし私が死にたいということに反対するのであれば、それはもはや私のことを考えていない証拠だ」

ひどく強引な考え方であるということはさておき、この時の自分の心境を未だに覚えているせいか、私は自殺した人間のことをそれほど可哀想だとは思いません。
誤解のないように言っておきますが、これは別に自殺を奨励しているわけでも称賛しているわけでもありませんし、自殺した方々を冒涜しているわけでもありません。
ただ単純に、死を望んでいたであろう自殺者の心境が少なからず想像できてしまうということです。そして、本人が望んでいたことである以上、可哀想という表現が果たして適切なのかと考えてしまうのです。
かと言って、どう感じてどう考えるのが適切なのかというのもまた難しい問題です。ただ、自殺者を一様に可哀想と考えることには多少なりとも違和感を感じます。

もちろん、自殺せざるを得ない状況にまで追い込まれてしまったという側面を考えると、基本的には可哀想という見方になるでしょう。そしておそらくはそれが正解だと思います。ただ、仮にそうであったとしても、最後の最後の瞬間には誰もが「死にたい」と考えていたことでしょうから、その一点だけにフォーカスし「望みを叶えられた」と考えることもできるはずです。

私は自分が自殺できなかったせいか、自殺できた方々を「ある意味で望みを叶えることができた方々」として見ています。普通の考えでないことは重々承知しています。しかし、自殺者の中には自殺できて幸せに感じている人間や、楽になったと喜んでいる人間だってきっといるはずです。

なにより、そうでなければ残された人間に救いがありません。
ですから、中にはこんな人間もいるということだけでも書いておきます。

 

 

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