亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

立ち直りの目安

 

「人生を大切にしようとしているか」

立ち直りを判断する際の目安のひとつとして、私はこの点を重視しています。
もちろん、あくまでも個人的な目安です。

一般的には、本人の意識、本人の言葉、本人の雰囲気、本人の笑顔…
おそらくこういったものなどで判断することになるのでしょうか。

さて、というわけで今回はこの目安について考えてみたいと思うわけですが、もうこれは言葉どおりです。

立ち直った人間は人生を前向きに、そして大切に生きていこうとする一方で、そうでない人間はなげやりに生きたり、人生を粗末に扱ったりしがちです。そして、最悪の場合は自ら人生にピリオドを打とうとしたり、それを望んだりします。


確かに、大切な人を亡くしてしまうと何もかもがイヤになって人生に嫌気がさしてしまうものです。それは自分自身もそうでしたからよくわかります。
それに加えて、人によっては、「死ねば会えるのではないか」「苦しみから抜け出したい」といった余計なことまで考えてしまうわけですから、人生を大切にするなんてことはまったく考えられないでしょう。

でも、「人生なんてどうでもいい」と言いながらも今を生きている人間は、きっと人生を大切にしたいんだと思います。
そしておそらく、そんな自分に気付いていないだけだと思います。

たとえば、お子さんの成長を見届けることだけが目的で、それさえ終わればさっさと死にたいし、人生なんてどうでもいいという方もいらっしゃることでしょう。
でも、言い方を変えれば、「お子さんの成長を見届けるために人生を大切に生きている」とも言えるでしょう。
また、「痛いのがイヤだから死ねないだけで、人生なんてどうでもいい」こう考えている方もいるでしょう。
でも、自分に痛みを感じさせないようにする姿勢は自分を大切にしていることに他なりませんし、どれだけ他に理由をつけてみても、それはすなわち自分の人生を大切にしようとしていると言えるのではないでしょうか。

はっきり言って、本当に人生がどうでもいい人間は何も言わずに消えると思います。

ですから、何かしら理由をつけたり、文句を言ったりしながらも今を生きている人間は、きっと人生を大切にしているんだと思います。
私にはそう思えて仕方ありません。

そして、あとはそれに気付くかどうかです。

知らぬ間に人生を大切にしている自分に気付き、そんな自分を認めてさえしまえば、わざわざ苦しい道を選ぶ必要はなくなります。いろいろなことを素直に受け入れられるようになるでしょうし、人生の重要な分岐点においても、ひねくれた選択をする必要がなくなります。
自分がどれだけ死にたいのかを人に一生懸命説明する必要もありませんし、当然、他人からの励ましの言葉に牙を剥く必要だってありません。

無理に人生に毒づく必要はありません。「自分は本当は生きたいんだ」「人生を大切にしてもっともっと素晴らしい人生を送りたいんだ」と認めてあげればいいだけです。

ちなみに、「死にたいのに死ねないのは本能的に死や痛みを回避しているからどうしようもないだけで、人生なんて本気でどうでもいい」という方も中にはいらっしゃるでしょう。
でも、わざわざそんなたいそうな話を持ち出す必要なんてまったくありません。
そんな鎧を身に付ける必要はありませんし、体裁だって気にする必要はありません。
「死にたくない、もしかしたら自分は人生を大切にしたいのかもしれない」と認めてみればいいだけです。

そもそも、人生を投げやりに考えること自体がカッコ悪いことですから、そういった面からも気をつけたほうがいいのかもしれません。この点に関しては、過去の私も大いに反省すべき点です。



さて、人生を大切にしようとしている自分に気付いたら、あともう一歩です。
あとは何をするべきか…?

「これからは人生を大切にしよう」

素直にそう思えばいいんです。


そしてそう思えた時、きっとそれは「立ち直り」です。
そんな日がみなさんにくることを願っています。

 

 

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