この人は本当に悲しいのだろうか…
たまに、こんなことを感じることがあります。
人をけなしたり、貶めたりするために言っているのではありません。ただ純粋に、そう感じる時があるのです。
悲しいのではなく、悲しんでいたいのではないかと…
悲しみに暮れざるを得ないのと、悲しみに暮れていたいというのでは当然のことながら大きく状況が異なります。前者はどうにもならない状況であるのに対して、後者は自ら望んで作り出している状況です。
しかし、外から見た場合、当然ながらこの両者の区別はつきません。すべては本人の心の中の問題ですから、これは当たり前の話です。
ただ、気を付けなければいけないのは、本人にも区別がついていない場合があるということです。これは気を付けたほうがいいでしょう。
死別という事実があった以上、悲しいのは当然のことでしょう。ただ、その悲しみは基本的には少しずつ薄れていくものです。それがいつまでも変わらず続いていると感じた時、ほんの少しでいいので立ち止まって自問自答してもらいたいんです。
自分はもしかしたら悲しんでいたいだけなのではないだろうか?…と
この問いにまったく思い当たるところがない方は、どうぞ気になさらずにスルーしてください。でも、少しでも引っかかった方は、以下の項目も確認してみてください。
- 悲しみと愛の深さには関係がある
- 長い間悲しむのは一途な証拠である
こういったことを感じたり、考えたりしたことはありませんか?
もし少しでもピンときた方は、今一度自分自身を見つめ直してもいいかもしれません。
なぜなら、こういった考えは悲しむことを正当化してしまい、それはそのまま悲しんでいたいという感情につながってしまうからです。
また、死別経験者を神聖視する傾向も、悲しんでいたいという感情を育みますので注意が必要です。
死別経験者というのは神聖視されています。なぜかはわかりませんがそれは事実です。考えてもみてください、死別して悲しんでいる人を悪く言う人間はいません。それどころか、死別経験者に対して気を遣えないような人間は、その人間性を疑われることさえあります。それほどまでに、死別経験者は神聖視されています。
その結果として生まれるのが、特別扱いをしてもらえる状況であり、周囲の人間に気を遣ってもらえる状況です。
これは、おそらくほとんどの人間が今までに経験したことのない状況でありますが、この状況に居心地の良さを感じてしまった場合、やはり悲しんでいたいと考えるようになってしまいます。
どのように考えるかは人の自由ですので、悲しんでいたいという人間にどうこう言うつもりはありません。しかし、もし立ち直りたいと考えているのであれば、自分が知らず知らずのうちにそうなっていないかということは確認しておく必要があると思います。
また、もしみなさんが死別経験者と接する際には、悲しみに暮れていたい人間がいるということを気にしてみてください。そうすれば、その人の悲しみに引っ張られることは少なくなると思います。