亡き人に会うために

大切な人を亡くされた人へ|前を向いて歩いていくためのヒントと故人に再び会うための方法を考えるブログ

似た境遇は必要か?

 

死別の状況は人それぞれとはいえ、ある程度似たような境遇というのは当然あり得ることです。もちろん、どの点をもって似ていると判断するかについてはいろいろな基準がありますが…

たとえば、大切な人を亡くしたという基準で考えるのであれば、死別経験者全員が同様の経験をしています。ですから、この基準を採用するのであれば全員が似た境遇であると言うことも出来ます。

とはいってもこれでは範囲が広すぎるため、この基準をもって「私とこの人は似ている」と感じる方はそうそういないでしょう。したがって、そう感じるためには、さらにいくつかの条件を加える必要があります。
その条件が次のようなものです。

死因、続柄、家族構成、死別した時の故人や自分の年齢、死別の時期、地域、職業…



さて、では「自分と似た境遇の死別経験者」が見つかるというのはいいことなのでしょうか?

私の答えは後回しにするとして、おそらく多くの方がいいことだと答えると思います。
なぜなら、多少なりとも「自分だけじゃないんだ」とホッとした気持ちになれるでしょうし、中には、それだけで励まされたような気になる方もいるでしょうから。
いずれにしても、悪いことだと考える人はあまりいないでしょう。

しかし、自分と同じ境遇の人間が「自分とは違う考え方」だった場合はどうでしょうか?

たとえば、死別の悲嘆に苦しんでいる人間が、ほぼ同じ境遇にもかかわらず前向きな人間に出会った場合などはこういったケースだと言えます。

こうなると、話は大きく変わるはずです。
そして、私はそういった光景を今までにたくさん見てきました。

それがどういう光景かというと、「明らかに似た境遇であり、本来であるなら共感しあってもいい状況にもかかわらず、頑として似ていることを認めようとしない」という光景です。
そして、「あの人と自分は一見似た境遇に見えるけど、〇〇も違うし、〇〇も違うし…結局、全然違うんだよね」と結論付けるわけです。

もちろん、これは別に悪いことではありません。
人それぞれですから。

誤解してほしくないのですが、私は「良い悪い」を言いたいわけではありません。
私が言いたいのは、「死別後の人間関係には、実はこういった境遇などはまったく関係がないのでは?」ということです。
つまり、死別の状況や家族構成や死別の時期などの個別的な条件はまったく関係なく、もともとの考え方が似ているかどうか、ただそれだけなのでは?ということです。

中には、大切な人との続柄などをやたら気にする人間もいます。ですが、それもおそらくまったく関係ないのでしょう。
結局、こういった個別的な相違点は異質な意見を排除するための材料として使われるに過ぎず、重要なのは自分と意見が合うかどうかだけです。
それは、考え方が同じ人間同士が集まるとなぜかその「重大であるはずの相違点」に急に触れなくなるところからも明らかだと思います。

ここで、上の問いに私なりの答えを用意するなら次のようになります。
「似たような境遇の死別経験者に出会うことは、考え方が似ている場合は何かしらの意味があるが、そうでないなら、その意見の違いを前向きにとらえられる場合のみ意味がある。それ以外は、そもそも似ていることを認めようとしないはずであるから、特に意味はない。」


死別経験者同士の人間関係は、死別が絡むため複雑に見えるだけで、最終的には「類は友を呼ぶ」というところに落ち着くごくごく単純な話であり、続柄や死因などいろいろなケースに分類するといったことはあまり意味がないように思います。
だからこそ、「亡くした相手が誰か、いつ亡くなったのか、どのように亡くなったのか」などにこだわらず、自らがしっかり判断して付き合う人間を選ぶべきだと思います。

とはいっても、死別以前からとっくにその答えは出ているのかもしれません。

 

 

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